調子に乗っていた太田に甘い言葉を囁いた男がいました。当時の担当マネージャー、S氏です。爆笑問題を引き抜く形で新事務所設立を画策し、「太田くん、やりたいことができていないなら僕が立ち上げる新しい事務所に移って自由にやればいい。君たちは天才だ。僕も一緒に夢を見させてくれ」なんて話していたそうです。
実は、私も彼の画策には気づいていました。S氏がテレビ局の関係者に独立の構想を語っているのを、偶然にも聞いてしまったんです。私が出ることになっていた仕事の現場に誰かの代役でS氏がやってきて、ちょうど目の前で独立構想を語るわけです。こんな話は秘めていても、タレントの前でやってはいけません。
私は高校を卒業してから、モデル事務所に入って、ミスコンの仕事をするなど芸能業界でそれなりに仕事をしてきていました。大手プロダクションから抜けて、中途半端に独立を画策すればどうなるかはわかっていました。こう言っては身も蓋もないですが、S氏の構想は、絶対にうまくいくわけないと私でも思うような代物でした。すでに私は太田と交際していたわけですが、仕事の帰り道で、S氏はこう言うのです。
「さっきの件、太田くんに声をかけたら来てくれるかな?」
「絶対にやめてください。だって爆笑問題は事務所のイチ押しですよ。そんなことをしたら大変なことになるのはわかっていますよね?」
私はS氏に言いましたが、彼はどこ吹く風という顔つきでした。
誰にも話せない「移籍と結婚」
事が大きく動いたのは、翌90年です。私は89年4月から、蓮舫さんや岡本夏生さんらと一緒に、テレビ東京の深夜番組『ひょっこり漂流島』に出演することになり、海外ロケや収録で家を空ける時間が増えていました。ある日、仕事を終えてグアム島から家に帰ると太田が「この前、Sさんがウチに来たよ」と言うんです。「これはやられた」と思いました。私がいないうちに、S氏は太田を口説きに来たのです。
それまで私は太田にこの話は一切していませんでした。私にしてみれば、事務所でもあまり関わりのないS氏の個人的な問題です。何も聞いていなかったことにしようと決めていましたし、まさか家にまで来るとは思っていませんでした。何より、太田は乗らないだろう、という思いもありました。
ところが、どういうわけか彼は「イエス」と言ってしまったんです。田中は田中で太田が決めたことに付いていくという話になっていて、あっという間に爆笑問題は独立決定という流れになってしまいました。私は太田に、本当にこれでいいのかと何度も確認しました。しかし太田は、「約束したことだから、裏切れない」と言い張って、頑なになっています。
