爆笑問題・太田光の妻である太田光代さん。最初は爆笑問題と同じ太田プロに所属するタレントだったが、現在はタレント事務所「タイタン」の社長として、爆笑問題を含めた所属タレントのマネジメントに従事している。
お笑い界の“期待の新星”として現れた若手時代の爆笑問題は、一体なぜ「カラッカラに干され」る状況になったのか。ここでは、光代さんが半生を綴った『社長問題! 私のお笑い繁盛記』(文藝春秋)より一部を抜粋して紹介する。(全4回の1回目/続きを読む)
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爆笑問題を連れていった男
評価を証明するように太田プロでは社長、副社(私も含め多くの人が副社長のことをこう呼んでいました)も了承して、爆笑問題を「ツービートの再来」「たけしの再来」というキャッチフレーズで売り出すことになりました。振り返ってみてもすごいキャッチフレーズですが、そう名付けることでプロダクションとして爆笑問題への期待を業界の方々に伝えやすくするためだったのでしょう。それももちろん、ツービートが所属していた事務所だから言えたことです。関係のない事務所では付けられないものであり、これ以上ない最高の売り文句でした。
太田も憧れのツービートやたけしさんの名前を引き合いに出されて嬉しそうでしたが、問題は彼がそれを本気にしてしまったことです。爆笑問題はデビュー間もない89年の段階で引く手数多になっていました。
今だから言えますが、テレビ各局では彼らを中心とした新番組が一斉に企画されていたのです。
しかし、あの頃の爆笑問題はトークで目立つというタイプではありませんでした。ネタを披露すれば必ず高評価がついてきましたが、大勢の芸人も交えてトークするとなると他の芸人の後ろに隠れて引っ込んでしまう。番組の演出でこの弱点をどうカバーするかについて、事務所関係者から番組スタッフまでが一緒になって、懸命に考えていたようです。要するに自分たちの名前で勝負するネタは持っているが、トークが磨かれていないという評価ですね。そんな弱点があるとわかっていても使ってみたいと思わせる芸人はそんなに多くありません。
大の大人があーでもない、こーでもないと知恵を出しているのに、太田は「そんなことはやりたくない」「自分がやりたいのはこんなことじゃない」の一辺倒で、偉そうに反抗していました。本人も後になって反省したのか「若い時はネタが面白ければ何とかなると思っていたし、業界のパワーバランスなんてわからなかった」と言っていますが、私に言わせれば「たけしの再来」と言われて天狗になっていただけです。

