『いやいやえん』誕生秘話
24歳と11ヶ月で私を産んだ中川李枝子は、その前年に児童文学の同人誌「いたどり」に「いやいやえん」を発表しています。高校卒業後2年間、東京都立高等保母学院に通い、その卒業時ですから20歳で「東京でいちばん、のどかな保育園」(『本・子ども・絵本』176ページ)に勤め、そこで出会った子ども達から身体全体に溢れて溢れて全てがいっぱいになるぐらいのネタを仕入れ、そこに中川李枝子なりの切り口、味付けをした結果が「いやいやえん」(1962年刊)だったのでしょう。
そもそも、ネタを仕入れる、というのは視点あっての気づきに基づく、つまり、受け止める力あってこそなので、それを、さらにその個人なりの表現で発信された「いやいやえん」は、中川李枝子の全て、出汁だけでなく灰汁までが発信されたものなのかな、と思います。
画家の父が指摘する「文章と絵の扱い」
「いやいやえん」が生まれた1950年代60年代は、現在につながる「子どもの本」の黎明期でした。『本・子ども・絵本』にたくさん出てくる岩波少年文庫や『岩波の子どもの本』、「ぐりとぐら」の『こどものとも』はいずれも1950年代にスタートしています。父宗弥がよく言っていたのが、文章と絵の扱いの差を変えたのが「中川宗弥」なのだそうな。特に絵本に於いて、それまで出版社は文章にばかり重きを置き、文章を書いた著者には版を重ねる毎にその増刷分の印税を払う形式にするのに、絵描きには挿絵を「買い取り」という形にしていた、と言うのです。口の悪い宗弥の言そのままにするなら「絵描きは貧乏でその場のお金が欲しいから」買い取りの契約を受け入れてしまうのですが、それでは、増刷した時、蚊帳の外になってしまう訳です。本、特に絵本は、文章と絵との相互の「力」で成り立つものだから、著者と絵描きが印税を半々に受け取る状況にすべきだと出版社に言い聞かせ、そうさせた、と言っていました。これはあくまでも中川宗弥からの伝聞で、事実関係には全く責任が持てないのですが、今につながる子どものための本のあり方の一側面であるとは思っています。ちなみに、中川宗弥は、晩年、自分の本を人に贈るときのサインに、自分のことを「この本をつくったひと」と書いていました。
