では、重三郎とも仕事をした北斎とはどのような人物だったのでしょう。北斎は数々の逸話で彩られており、とりわけ目をひくのがその奇行です。先ず、北斎はその生涯の中で三十数回も画名を改名したと言われています。芸能人でも改名する人がいますが、せいぜい数回でしょう。ではなぜ北斎はそれ程多く改名したのか。心境の変化があったのかと言うとそうではなく、改名し、前の名を門人に譲っていたのです。何のために? いくばくかの礼金を得るためでした。

「勝川春朗」から「画狂人」まで名を変えた

北斎は貧乏生活に陥ることがあり、それが極まるとすぐに門人に画名を譲ろうとしたのです。門人もたまったものではなく、閉口したとのこと。北斎の凄いところは改名するごとに画風が変化していると評されていることです。これは誰でもできることではありません。

ちなみに北斎の画号には「勝川春朗」「勝春朗」「叢春朗」「群馬亭」「辰政」「雷震」「雷斗」「戴斗」「北斎」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「卍翁」「卍老人」「不染居」「九々蜃」などがあります。有名な「北斎」は「北斎辰政」の略称であり、彼が39歳の頃に名乗りました。この画号は北極星を神格化した北辰妙見菩薩信仰(日蓮宗系)によるとされます。北斎は常に「妙法蓮華経普賢菩薩勧発品(みょうほうれんげきょう・ふげんぼさつ・かんぼつほん)」の呪を唱えていたと言いますが、道を歩く時もそうだったようです。

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そう聞くと「信仰心がある人なのか」もしくは「変人なのか」と思うでしょう。ではなぜ北斎はそんなことをしていたのか。それは北斎は道端での立ち話や雑談をすることが大嫌いだったからです。煩わしいと思っていたのです。北斎は「呪を唱えながら歩くと道で知っている人に会っても目に入らない。奇妙なことだ」と語っています(また知人であっても、呪を唱える人に話しかけにくいでしょう)。

生涯で93回も引っ越すなどの奇行

北斎の奇行の1つとして有名なのが、引越しの多さです。諸説ありますが、転居は93回に及んだと言います。『広益諸家人名録』には北斎は「居所不住」と記されているのです。「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるように江戸は火事が多い場所でしたが、北斎は多くの転居をしても不思議なことになかなか火事に遭うことはありませんでした。天保10年(1840)頃、本所石原町から達磨横丁に転居した時、北斎は初めて火事に遭ったのです。火事だと知ると北斎は絵筆を持ったまま家から一目散に逃げ出したとされます。家財を持ち出す暇はあったようですが、それをせずに絵筆のみを持ち、北斎は飛び出したのです。絵筆があればそれで十分。それで自分は生きていける。北斎にはそうした自負もしくは覚悟があったのかもしれません。