“ポイチ”がサッカー日本代表監督に就任、U-21代表監督も兼任することになった。

 ポイチとは森保一(もりやす・はじめ)のことである。保一でポイチ、高校時代、苗字は「森」、名前は「保一」と勘違いされてそう呼ばれ、ドーハの頃からファンの間でも親しまれている愛称だ。

 監督としてはサンフレッチェ広島で2012年から2連覇を達成、2015年にも優勝を果たし、4年間で3度のJリーグ優勝に導いたことで評価を上げた。堅固な守備ブロックを敷き、主にカウンターで点を取るスタイルは、2011年までのペトロヴィッチ監督の超攻撃的なスタイルとは異なる戦術だったが、堅実なサッカーで勝ちにこだわるスタイルは選手時代の様々な経験がベースになっている。

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サンフレッチェ広島を率いた森保 ©文藝春秋

「モリヤス」と「ボランチ」が浸透した1992年

 森保がスポットライトを浴びたのは、1992年のキリンカップである。

 広島の前身、マツダの監督で、日本代表監督になったオフトによって日本代表のメンバーに招集された。当時は無名の存在で、「もりほ」と呼ばれるなど日本代表の主力選手で彼の名前をきちんと読める人がいなかったのは有名な話だ。口数も少なく、カズ(三浦知良)やラモス瑠偉らのオーラに緊張し、食事の時はいつも広島組の高木琢也や前川和也と一緒にいた。だが、ボランチとして守備で圧巻のプレーを見せると、一気に「モリヤス」という名前と「ボランチ」という言葉が世間に浸透した。

 もともと攻撃的MFだったが、日本代表ではもっぱら守備に比重を置いたプレーをしていた。当時の日本代表の中盤はダイヤモンド型がメインで、森保は中盤の底を任されていたからだ。また、左のMFにはラモス瑠偉がおり、トップ下には福田正博、前線にはカズ、最終ラインには柱谷哲二、井原正巳ら日本サッカー界の超個性派たちが主要な位置におり、ポジション的にも役割的にも「自分が」という余裕はなかったのだろう。それゆえ向かってくる相手選手にすっぽんのように粘り強く食らいつき、ボールを奪うとラモスを探し、パスを送る。中盤の“掃除役”となり、我慢強く、忍耐強く、地味で面倒な仕事を献身的にこなしていたのである。

「ドーハの悲劇」で実感したこと

 森保は、「ドーハの悲劇」を経験したドーハ戦士でもある。

1993年、カタール・ドーハで行われたアメリカW杯最終予選に出場した森保 ©文藝春秋

 1993年、カタール・ドーハで行われたアメリカW杯最終予選、森保は日韓戦以外の全4試合にスタメン出場を果たし、最終戦のイラク戦もピッチに立った。日本代表はロスタイムに同点に追いつかれて初のW杯出場を逃したが、森保はこの時、勝たなければ何も得られないことを実感し、形はどうあれ勝ちにこだわることを学んだ。

 広島での選手時代はバクスター監督の薫陶を受けた。

 バクスターはチームで特定の選手に頼らず、全員攻撃全員守備を徹底。単純な展開の組み合わせで多彩な攻撃をする組織的なサッカーを見せた。そのスタイルで1994年、Jリーグ・ファーストステージを制した。森保が広島を指揮していた時、毎年のように主力が引き抜かれたが、それでも選手をやりくりして戦力を維持し、優勝できたのは、当時学んだチーム作りが活きたからでもある。