“生きてる怨念”みたいなものがなければ走り続けられない
――とはいえ、そこまで自分を追い込むモチベーションは、どこから来るのでしょうか。作中では、お互いがいがみ合う主人公の恃照と、その弟子である戒閻というふたりの僧侶が、それぞれの業を背負って千日回峰行に挑みます。
鏑木:そうですね……このふたりは、皇族の血を引きながらも、その出生を明らかにできないという、普通ではない運命を背負っていますよね。僕がそこで感じたのは、トレイルランニングのような長い距離を走る競技って、何かこう“生きている怨念”みたいなものがないと、とても走り続けられない世界だと思うんです。
僕自身も10代、20代は本当に挫折と失敗ばかりでした。だから、何かを成し遂げたい、自分が何者として認めさせたい、というような気持ちで生きてきた。その先にこの100マイルという世界があったんです。もちろん、彼らと僕とでは対象は全く違いますけど、その心境はすごくよく分かります。
もちろん千日回峰行は超越した世界なので、比べるのもおこがましいですが、普通に順風満帆に育ってきた人間が、普通に達成できる世界じゃないような気がするんです。何かそういう精神的な、ドロドロしたものをエネルギーにしないと、なかなか成し遂げられないのではないかと感じました。
――極限まで自分を追い込んでいると、神や仏といった存在を強く意識することはありますか?
鏑木:実は、考えるだけでエネルギーを使ってしまうので、なるべく考えないようにしています。レース中はとにかく思考を単純化させて、「次のエイドステーション(ランナーが水分や栄養を補給できる施設)まで」ということだけを考えて繋いでいく。 でも不思議なもので、そうやって「無」の世界の中で走っていると、ふっとひとつの思考が降りてきたりするんですよ。
僕も40歳までサラリーマンをしていたんですが、会社を辞めてプロになろうと決めたのも、8時間くらい山を走っている時でした。ふっと、「この仕事をやめて、違うステージに行ってもいいんじゃないか」って――脈絡もなく、ひとつの重大な決断が下されることがありました。何かを考えよう、まとめようとするのではなく、自然に降りてくる感覚。長い距離を走っていると、いつもそういうことがありますね。
――それは、いわゆる「ゾーンに入る」という感覚でしょうか。
鏑木:そうなのかもしれません。ずっと苦しい中で、ふっと楽になる瞬間がある。それはゾーンのひとつなのかもしれないですね。
他者を意識した瞬間に、自分の世界が破壊される
――この物語の核には、恃照と戒閻というふたりのライバル関係があります。鏑木さんの競技人生においても、「どうしても負けたくない」というライバルはいましたか?
鏑木:競技上のライバルはたくさんいますが、このふたりのようないがみ合う関係性というのはないですね。ただ、この物語を読んでいて、自分が2009年のUTMBで3位になった時の経験とすごく重なる部分がありました。あの時は2位にフランスの選手がいて、レース中盤ですごく差を詰めたんです。それまでは自分の走りに集中して、無心でやっていた。でも、あるエイドステーションで、彼が出ていく時に僕が入って、目がバチンと合ったんです。
その瞬間、僕の中に「絶対にこいつを打ち倒す」という、憎々しい感情がぶわっと湧き上がってきました。相手も「絶対に抜かせないぞ」という目をしていました。その時、レースで初めて「相手」を意識したんです。そうしたら、エイドステーションを出た直後にハンガーノック(低血糖症)に陥って、山の中でうずくまってしまいました。人のことを意識した瞬間に、これまで純粋に自分だけのものであった世界が破壊される。それを痛感した経験でした。
この小説のふたりもそうですよね。千日回峰行の前半の回峰は順調にこなしつつ、9日間の断水・断食・不眠・不臥といった「堂入り」を最後の最後でふたりとも失敗してしまう。それはおそらく、他者を意識してしまったからだと思うんです。恃照は自分の生まれや何かを成し遂げたいという雑念が、戒閻は恃照を意識して「前例のないことをやり遂げるんだ」という現世の欲が出てきてしまった。
自分だけの世界に集中していれば、おそらく成し遂げられていたのかもしれない。こういう過酷な挑戦では、本当に自分のことに集中しないとダメなんだなということを、このふたりの失敗を見て改めて感じましたね。
