大谷に「胸の熱さ」を覚えた瞬間

 本間は大谷を入団時から取材してきたが、個人的な繋がりを持っているわけではなかった。担当記者はときに選手と酒を飲み、ときにプライベートに触れながら付き合いを深めていく。そうすることで他の者が耳にできない情報に触れ、他紙にはない原稿の材料を得る。選手側にしても、チーム内では口にできない心情を記者を相手に吐露することができる。そして記者はそうした繋がりを結んだ選手の成功を望むようになっていく。

大谷は優勝だけを目指し、自分を磨き続けた Ⓒ文藝春秋

 だが、大谷はどのメディアに対しても、どの記者に対しても、個人的な繋がりを求めなかった。チーム内の人間にすら求めていないように見えた。メディアが殺到し、取材規制が敷かれてからは単独で話し掛けることも難しくなった。酒席はもちろん、プライベートで時間をともにしたこともなかった。だから大谷にどれだけ密着しても、従来の意味における記者としての見返りはほとんどなく、個人的な感情が生まれることもないはずだった。にもかかわらず、大谷を見ていると、この挑戦が報われてほしいと思わずにはいられなかった。

 その感情が芽生えた瞬間のことを本間は明確に覚えていた。大谷が新人だった2013年シーズンの終わりのことだ。当時、ファイターズは最下位に沈んでいた。優勝はもちろん、プレーオフ進出も絶望的な状況だった。淋しき秋の“消化試合”は0対5と大量リードされたまま最終回の攻撃もワンアウトとなっていた。そこで大谷が打席に立った。打球は内野ゴロで、誰が見てもアウトだと判断するような凡打であった。だが、大谷は猛然と一塁めがけて全力疾走をすると、ベースの数メートル手前からダイブしたのだ。

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 本間は記者席からそれを見ていた。優勝も何もかかっていない敗色濃厚のゲームの中、彼のヘッドスライディングは明らかに異様で、浮いていた。同時に嘲笑するのを躊躇(ためら)わせるような圧倒的な熱量と切実さがあった。高校球児ならいざ知らず、少なくとも本間はこの状況で一塁ベースに頭から飛び込むプロ野球選手を初めて見た。そして、胸の奥が熱くなっていることに気付いた。

 本間はゲームのない日も、オフシーズンも、大谷がトレーニングをしていれば、そこへ足を運んだ。たとえ接触できないと分かっていても、許される限りはそれを見届けた。入団2年目のキャンプで、本間は大谷からビデオカメラを回してほしいと頼まれたことがあった。ひとりだけ異なるメニューでトレーニングをしていた彼は、誰もいなくなった室内打撃練習場でフォームを撮影してくれる人間を探していたようだった。本間は要請に応え、ひとり打ち込む大谷を撮影した。もし記者と大谷の間に生まれたものがあるとすれば、内なる祈りであり、それを媒介したのは、ともに飲む酒や交わす言葉ではなく、時間もエネルギーも、あらゆるものを野球に注ぐ彼の姿であった。

 大谷はファイターズという球団と栗山英樹という監督の下で、誰も歩んだことのない逆風の坂道を上ってきた。1年目は投手として3勝し、打者として3本のホームランを放った。2年目は日本プロ野球で初となる2桁勝利、2桁本塁打(11勝、10本塁打)を記録し、3年目は投手3冠を達成した。そして4年目のこのシーズン、史上類を見ないプレーヤーになろうとしていた。

 本間は福岡ドームのプレスルームを見渡した。室内は静まり返っていた。相手球団がリードすると、「今日くらいは一面を書かなくて済むかもしれない」と冷やかしの一つでも言うホークス担当の記者たちが言葉を失っていた。おそらくは日本各地でこの部屋と同じ静寂があるのだろうと本間は想像した。その沈黙は何よりも雄弁な二刀流への肯定であった。

 どうだ、見たか。モニター画面に映る大谷と絶句する他の記者たちを見つめながら、本間の胸には、まるで自分のことのような誇らしさが芽生えていた。(文中敬称略)

※本記事の全文(約10000字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(鈴木忠平「No time for doubt 第2回」)。
全文では、大谷と同期入団の鍵谷陽平の想い、日本ハム監督・栗山英樹が大谷を「1番、ピッチャー」​に起用した背景、当時のソフトバンクホークス監督・工藤公康の大谷への評価などが描かれています。「文藝春秋PLUS」では、本連載を初回からお読みいただけます。

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