MLBワールドシリーズが10月24日(日本時間25日)に開幕、大谷翔平が所属するドジャースは、ブルージェイズと“世界一”の座をかけて対決する。

 日本球界で大谷は、日本ハムに所属していた2016年にリーグ優勝を果たし、日本シリーズも制している。ノンフィクション作家・鈴木忠平氏が、大谷が日本一に輝くまでの軌跡を描いた話題の連載「No time for doubt ―大谷翔平と2016年のファイターズ―」から、第1回全文を無料公開します。(全2回の1回目/続きを読む)

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監督室をノックする音がして、八頭身の若者が……

『もう2位は要らないわけです。だから11.5ゲーム差を開けられた時も、勝てるかどうかなんて考えていない。ひっくり返すことしか考えていない。優勝を疑った瞬間はないです。逆に言えば、ずっと疑っていたのかもしれない。つまり、勝てるかどうかではなく、勝つためにやっているだけなので。僕は勝つために逆算して、手を打ち続けるだけなんです。8月の後半から9月に入るところで、優勝がはっきり見える状態まで持っていってあげたら、あとは選手たちが勝手に走り出す。こっちの仕事はその気にさせることなんです。

 そのためにはどこかのタイミングで、アウェーの福岡でインパクトのある3連戦3連勝をしないと、何かきっかけをつくらなければ、優勝はないと思っていました。そこで考えていたのが、あの作戦です。偶然に思いつきでやったわけではなくて、1カ月以上前から練っていた。そして、あそこですべての条件が整った。神様がやれと言っている。だから、前の日に翔平を呼んで話したんです』(栗山英樹)

「翔平を呼んでくれるか」

 栗山英樹はチーフマネージャーの岸七百樹(なおき)にそう告げた。2016年7月2日、福岡ドームでのデーゲームが始まる前のことだった。

 試合前のベンチ裏は慌ただしく人が行き交い、まるで早回しのように時間が流れていく。ミラールームでスイングする者がいれば、トレーナー室のドアをノックする者がいる。サロンでリラックスする者がいれば、ロッカールームで祈る者がいる。誰もが、あと数十分後に始まる試合に向かっていく中、栗山はひとり明日のことを考えていた。眼前の一歩ではなく、およそ半年間に渡るペナントレースの最後にどんな一歩を踏み出せるかに頭を巡らせていた。奇跡は起こる。どうすれば選手たちにそう信じさせることができるのか。北海道日本ハムファイターズ指揮官としての栗山の葛藤はそれに尽きた。

 このデーゲームが始まる前の時点でファイターズは3位につけていた。貯金11を積み上げ、十分に優勝圏内の数字を残していた。だが、首位を走る福岡ソフトバンクホークスはその遥か先にいた。6月の半ばには最大11.5ゲーム差をつけられた。そこからファイターズは逆襲を開始し、現在8連勝中だったが、それでもまだ王者との差は8.5ゲームも開いており、その背中は遠く霞んでいた。そこに栗山のジレンマがあった。

大谷は2016年から「リアル二刀流」をスタートさせた Ⓒ文藝春秋

 80年にもなるプロ野球の歴史において、11ゲーム以上離されたチームが逆転優勝を飾った例は数えるほどしかなく、どれもが「ミラクル」と形容されるものであった。つまり、ここから自軍がホークスを捉えることはほとんど不可能だと見られていた。

 栗山に限れば、そんなことは問題ではない。そもそも可能性を計算するという生き方はしてこなかったし、4年前に監督という仕事に身を投じてからもゴールに向かってひたすら手を打ち続ける日々を送ってきた。可能性を疑っている時間などなかった。だが選手はそうはいかない。いくら不可能なことなどないと口にしても、冷酷な戦いの場に身を置いている者たちは肌感覚で相手との距離を知ってしまう。届くのか、届かないのか、奇跡の確率を悟ってしまう。ペナントレースの趨勢が決まると言われる9月に差しかかったところで首位の背中がはっきりと見えていなければ、否応なくチームの空気は諦めに支配されるだろう。かつてプレーヤーとしてもプロ野球を戦った栗山にはそのことがよく分かっていた。

 球界では、ひと月で縮まるゲーム差はせいぜい3ゲームと言われている。残された時間はそう多くない。それまでに、勝てると信じられる場所までチームを連れて行くのが監督としての仕事であった。それさえできれば、逆に選手たちは指揮官の想像を超える速度で突っ走っていくことも、監督1年目でリーグを制覇した経験から分かっていた。

 前年シーズンのファイターズは2位だった。17個の貯金を積み重ねたにもかかわらず、終わってみれば優勝したホークスに12ゲームも離されていた。鷹の尾翼すら見えなかった。栗山の脳裏にはその虚しさと悔しさが残っていた。もう、あんな思いはしたくない。敵地の監督室で思いを巡らせた末に栗山は一つの決断を下した。あるプランを明日のゲームで実行に移す。それはひと月ほど前から頭にあったものであり、間違いなく世の中では常識破りと言われる作戦であった。

優勝するためにあらゆる手を打っていった栗山監督 Ⓒ文藝春秋

 まもなく監督室をノックする音がして、八頭身の若者が入ってきた。21歳の青年はその顔にあどけなさと底知れない成熟を同居させていた。栗山は秘めていたプランを彼に告げた。悠々と空を舞う鷹を引きずり下ろし、チームから「不可能」や「諦め」という文字を排除する。その計画の主人公が大谷翔平だった。

 鍵谷(かぎや)陽平はリリーフ投手である。先発投手が崩れたとき、あるいは何らかの理由で早めの継投が必要になったとき、劣勢の流れをストップするべくマウンドに上がるのが役割だった。だから試合が始まれば、早い段階でブルペンと呼ばれる投球練習場に向かう。この7月2日もそうだった。他のリリーフたちとともに身体をほぐしながら、モニターに映る試合経過を睨んでいた。いつ呼ばれてもいいように準備をしながらも、胸には少なからぬ不安があった。このシーズンの鍵谷は開幕からずっと、人知れず悩みを抱えていた。

 鍵谷は北海道の南端、渡島(おしま)半島の亀田郡七飯町(ななえちょう)で白球を追いながら育った。北海高校ではエースとして甲子園に出場したが、初戦で12失点を喫して敗れた。プロへの門戸が開いたのは中央大学での4年間を経てからだった。ドラフト3位で入団した右腕は、自分がプロの中で飛び抜けた天才ではないことを知っていた。投手として打者をねじ伏せる特徴的な勝負球を持たない自分がこの世界でどう生きていくか。模索した末に2年目のある試合で突然、視界が開けた。

 “左膝の横で腕を振る”

 その感覚で投げると、ボールがこれまでより強く速くなった。鍵谷は一軍に欠かせない戦力となり、プロ4年目を迎えていた。だが、この2016年はこれまでと同じように腕を振っているはずなのに、なぜか、ボールが思うような軌道を描いてくれなかった。打たれる日が増えていく。ベンチの信頼を失うのではないかと焦りが募る。何より苦しいのは、不振の理由が分からないことだった。それでも呼ばれればマウンドに立たなければならない。だから鍵谷は胸の内で唱えていた。