“自分はナンバーワンの投手だ。絶対に抑えられる”
冷静に見渡せば、プロの世界には羨ましいほどの才能を持った者たちが溢れている。それは承知の上で、マウンドでは自己暗示をかけるのだ。絶対的に己の力を信じて投げなければ、とてもプロのマウンドで生き残っていくことはできなかった。
この日、鍵谷の出番はなかった。チームは先発した有原航平と外国人右腕のアンソニー・バースの継投でホークス打線をゼロに封じ、連勝を9に伸ばした。鍵谷の胸にある不安も苦しみも、また次の登板まで持ち越されることになった。どれだけチームが勝とうとも自らの結果が伴わなければ解放されることはない。個人と組織と、2つの勝利を手にしなければ、決して完全に満たされることはない。プレーヤーとはそういうものである。ただ、どういうわけか、このシーズンに限ってはかつてない感情が生まれていた。投手としては技術的な不調に苦しんでいるのに、鍵谷は例年以上に野球にのめり込んでいた。自らの成績に関係なく、このチームでペナントを争うこと、日々ゲームを戦うことに心が浮き立った。それはプロフェッショナルとしては矛盾とも言える、説明し難い感情であった。
「今日は初回の攻撃を見ておいた方がいいっすよ」
翌7月3日もファイターズは福岡でデーゲームを戦うことになっていた。北海道日刊スポーツ新聞社の本間翼は午前中に福岡ドームに着くと、まだ誰もいない三塁側のビジターチーム用ベンチに足を踏み入れた。そこで選手たちを待った。
グラウンドに出てくる彼らの表情を見て、その日の空気を察する。もし異変があれば探る。スポーツ紙のファイターズ番記者として欠かしたことのない日課であった。あるいは、この日はわずかに足取りが急いていたかもしれない。球団9年ぶりとなる10連勝がかかったこのゲームの先発投手が大谷翔平だったからだ。
ほどなくして選手たちがダグアウトに出てきた。もう10年以上もこのチームを取材している本間にとってはほとんどが馴染みの顔だった。連勝中だけに誰の表情にも余裕があったが、その中にとりわけ悪戯っぽい視線を送ってくる選手がいた。内野手の杉谷拳士(すぎやけんし)であった。コミュニケーション能力に長けた彼はチームのムードメーカーであり、メディアへの発信者でもあった。そんな男が意味ありげにニヤニヤと笑っているのだ。
「どうしたの? 何かあった?」
本間は探った。すると杉谷は何かを言いかけて、「いや、やっぱり言えないっす」と勿体をつけた。そんな事を言わずに教えてくれよ、と食い下がると杉谷が囁いた。
「いや、全部は言えないんですけど、今日は初回の攻撃を見ておいた方がいいっすよ。弁当なんて買いに行ってる場合じゃないっすよ」
杉谷はそのまま目配せを残してウォーミングアップに出ていったが、本間にはそのヒントだけでピンとくるものがあった。王者ホークスとの差を詰めるチャンスであるこの試合、おそらく監督の栗山が何か特別な手を打ったのだ。そして、それは間違いなく大谷に関することだ。それだけこの2016年シーズンの大谷はチームにとっても、球界にとっても大きな存在だった。
本間は大谷を入団時から取材してきた。その過程で記者としての野球観を大きく変化させられていた。岩手の花巻東高校を卒業後、そのままアメリカへ渡ることを明言していた大谷はドラフト会議でのファイターズの強行指名と、その後の説得交渉によって入団に至った。アメリカ球界も注目する逸材が日本球界でプレーする。それだけでも注目を浴びたが、何より特異だったのは、ファイターズ入団と同時にプロ野球史上初の挑戦をすると宣言したことだった。
どれだけ才能があっても、たとえ高校時代にエースで4番だったとしても、野球選手というのはプロになれば投手か打者かどちらかを選んで、その道で一流になるのが常識だった。それだけ現代プロ野球というのは投打それぞれの専門性が高く、生存競争が激しく、長丁場のペナントレースを戦う上では肉体的な限界もあった。ところが大谷は投打両方で頂点を目指すという。それはオーケストラでいえば、第一ヴァイオリンの奏者が管楽器も吹きこなすようなものであり、一流レストランで、肉料理を担当するロティスールがブーランジェとしてパンを焼き上げ、パティシエとしてデザートを仕上げるようなものだった。つまり、業界において「不可能」と結論づけられていることだった。
球団が「二刀流」と銘打った常識破りのプロジェクトは栗山の指揮下で進められたが、当初から否定的な意見が大半だった。先発投手はひとつのゲームに登板すれば、そのあと5日か6日は空けなければ、次のマウンドには立てない。それほど肉体的に消耗する。そんな状態でどうやって打者としてバットを振り、人生を賭けて向かってくるプロの投手の球を弾き返すというのか。評論家の多くは大谷の才能を中途半端に消費するだけなのではと疑問を投げ掛けた。チーム内にすら冷ややかな視線が存在した。本間も否定派ではなかったが、過去の成功例がないことから実現の可能性は低いのだろうと思わざるを得なかった。

