千葉市稲毛区で行列のできる平壌冷麺店を夫婦で営むムン・ヨンヒ(34)さん。北朝鮮のエリート階級だった彼女は25歳の時にひとりで脱北を果たした。北朝鮮での暮らしはどのようなものだったのだろうか。当時の話を聞いた。(全4回の1回目/続きを読む)
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「大飢饉でも3食白米を食べられていた」家系のルーツは浅草
――北朝鮮ではどこに住んでいたんでしょうか。
ムン・ヨンヒ(以下、ムン) 幼い頃は、元山(ウォンサン)という場所に住んでいました。新潟と北朝鮮を往来していた万景峰(マンギョンボン)の母港です。
金正恩が生まれたと言われている場所なので、最近はビーチリゾート開発に力を入れているようです。ニュースを見ると「こんなに変わっちゃったんだ」と思うくらいきれいな街になっています。
13歳の時に家族全員で平壌のマンションに移住したんです。地方は一軒家ばかりなんですけど、平壌市内はアパートしかない。3つ部屋のある家で、お父さんとお母さん、弟と私、おばあちゃんの5人で過ごしていました。
――ムンさんは1991年の生まれですよね。北朝鮮では1994年から1998年にかけて数百万人が餓死したと言われている「苦難の行軍」が起こっています。その影響はありましたか。
ムン 幼い頃の出来事なので、あまり記憶になくて。元山は日本との貿易が活発なところだったので、他の地域より貧しい人が少なかったと思います。
北朝鮮では食事に困らなければ裕福。私の家では1日3食白米を食べていました。「明日食べるものがなくて困る」って経験はなかったです。
――北朝鮮では家系が重要と聞きます。ヨンヒさんの家族について教えてください。
ムン 私は在日朝鮮人の2世なんです。父方のおじいちゃんとおばあちゃんは韓国・済州島出身。1920年頃に景気が悪くなって、浅草に移りました。お父さんも浅草で生まれていて。お母さんも日本出身。1959年から1984年にかけて行われた帰還事業で両親は北朝鮮に渡ってきました。
おじいちゃんは朝鮮総連で重役を務めていたし、お父さんも軍隊の要職に就いていたんですよ。
――帰還事業では「地上の楽園」を合言葉に9万3000人以上が北朝鮮に渡りました。差別を受けたり、収監されたりした人もいたと聞きますが……。
ムン 日本に40年住んでいたおばあちゃんは、北朝鮮に帰ってから朝鮮語を学んだので発音がうまくできなくて、「在日だ!」と馬鹿にされていたそうです。でも、そのことで反論したり、悪口を言うと捕まるかもしれない。「なにも言えなかった」と聞きました。
あとは、叔母の旦那さんが仕事から急に帰ってこなくなったこともありました。理由はわかりません。家に軍隊の人が来て、離婚の書類にハンコを押すように言われたそうです。こういう場合、家族みんな連れて行かれるんですけど、家族は無事でした。おそらく朝鮮総連との関係性を心配したのでしょうね。
――ちなみに、日本とのつながりは残っていたのでしょうか。
ムン お父さんの兄弟はみんな浅草生まれです。日本国籍を取得した親戚もたくさんいるんですよ。幼い頃は、北朝鮮に毎年来ていたので、日本の話をよく聞かせてもらっていました。

