韓国籍をもらってから家族の脱北を手伝う
――脱北をした後、韓国ではどんな生活をしていたんですか。
ムン 感染症の検査を病院で受けて、3ヶ月間の取り調べと教育を受けました。私は大学を卒業しているから大卒者の資格ももらえました。
日本で事業を営んでいる親族の会社の拠点が韓国にもあったのでそこで働いて、1年経った頃に韓国の国籍をもらいました。
――北朝鮮にいるお母さんとは?
ムン 2017年の11月にお母さんから私の携帯に電話がかかってきたんですよ。日本に住んでいる親戚に電話番号を聞いたみたいで。「無事なの?」「無事だよ」と話をして。それから軍隊に入っていた弟が休みを取ることになったと聞きました。
――弟さんはなぜ休みになったんですか。
ムン 軍事訓練をしている時に銃剣の剣が足の親指のところに刺さって貫通したみたい。応急処置はしたけど膿が止まらなくて。「このままだと足を切らないといけなくなるかもしれない。治してこい」と命令されて家に戻ってきたそうです。
お母さんは弟の一時帰宅を受けて「チャンスかもしれない……!」と感じたそうです。それから私が母と弟の脱北の準備を進めました。
――ブローカーに支払う費用も必要になりますよね。
ムン 脱北のお金が必要になると思って、韓国に来てから食費や生活費を切り詰めていたんです。1年間で貯めた約30万円をブローカーさんに支払って家族の脱北の準備を進めました。
――決行したのは何月でしたか。
ムン 11月です。川に氷が張るくらい寒いけど流されにくい。でも、私が脱北した時のことを考えると心配でした。「同じような苦労をさせたくない」と思って、「なにも持ってこなくていい。こっちで準備するから」と伝えて。軽バンを用意して中国と北朝鮮の国境まで迎えに行きました。
――無事に合流できましたか。
ムン 私がお母さんを見つけた時は服が氷に裂かれてボロボロでした。中国の山には雪が積もっていたから、濡れた服で寒い思いをさせてしまった。
安全地帯に移動して1ヶ月間ほど過ごして。その後、お母さんたちはラオスの韓国大使館に向けて出発。私は韓国に戻りました。ずっと無事を祈っていたんですけど、8日後にラオスの韓国大使館に到着したと家族から電話があって。「よかった!」と安心しました。
――ちなみに、おばあちゃんはどうなったのでしょうか。
ムン 脱北に失敗したから監視の目が厳しくて。お母さんたちが脱北した1年後に腕のいいブローカーさんを手配して準備をしていたんですが……。脱北する前日の夜に亡くなりました。興奮しすぎたのかな。お母さんは「そっと連れていったほうがよかったのかな」と後悔していました。
写真=佐藤亘/文藝春秋
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