お寿司屋さんでは、いきなり「貯金、幾らある?」と訊かれた。正直に答えると「え、そんなあんの?」とマウントを取り損ねたような様子。いやいや、15年も実家暮らしのOLをやっていて、年2回のボーナスを使い途もなく貯め込んでいればこのくらいにはなると説明したら、「へぇー? そんなもんかい」と驚いていた。「一般的な会社員」のことはよく知らなさそうだった。私はお腹のことを忘れたくて、敢えて早々に地金を出してしまうべくビールを飲んだりラッキーストライクを貰ったり、彼のからかいに対してテーブルの下で足を蹴飛ばしてやったりなどして、楽しかった。

 2日目の夜、東京ドームからのタクシーを鶯谷の北口で降りると、機嫌がよかったに違いない、けんけんはポケットに手を突っ込んで何やら縁石みたいなのの上に乗っかっていて、革靴の先に灯りが映り込んでピカピカしていた。

理想のデートをさせてやれなくて申し訳なかった

「信濃路」店内での様子は先の「28回!」の通りだが、途中でファンと称する男の人が握手を求めにやってきて、けんけんは、尋ねられてもいないのに「あ、これ今、雑誌の取材なんです」とか何とか言っていた。

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 私はアラフォーらしくエアコン対策にパーカーを着込んではいたが、張り切って短めのスカートに素足でサンダルだったので、立ち去るその人の背後で眉を上下して「こんな格好の記者いる?!?」と訊いたら、任せておけと言わんばかりに口パクで「いいんだよ」と返された。前日、お寿司屋さんでの初めての食事の時にも「何か食べられない物、ある?」と訊いてくれたのだが、それと同様、よく気が付いて抜け目がなくて、頭がいいんだなァと思った。

「信濃路」は鶯谷駅北口から徒歩10秒 ©kawamura_lucy/イメージマート

「信濃路」でサインと引き替えにお会計をロハにしてもらったのは『日乗』にある通りで、小さな戸口につっかえそうな彼の大仏的な背中を頼もしく思いながら後にくっ付いて外へ出ると、照れ隠しなのか「えぇ? どうだい、まぁ、俺ぐらいになりゃよ、こうしてサインも頼まれてよ、ロハにもしてもらえんだ」と嬉しそうで、私も嬉しかった。

 しかしこの『日乗』には噓があって、実は初日、寄席へは行っていないのである。ちょっとタクシーに乗るにもいちいちグダグダ言うこんな病持ちは、一緒に寄席など行けたものではないのである。当時「本の話Web」で公開されていた『日乗』は、先述の通り割合すぐ目に触れることになったのだが、この、行ってもいない「寄席」のお陰で、『日乗』には噓も書くんだなァ、と早いうちから知れて、諸々安心することにもなったのだった。しかし一方で、けんけんは寄席に行きたかったのだろうなァ、と思うと、理想のデートをさせてやれなかったことが申し訳なくもあった。せっかく芥川賞まで獲って、こんな女かよ、と気の毒になった。

 後年、東京で片付けをしたといっては、マンションに収まらない物を岡山へ送ってくるようになった時、末廣亭の手拭いもあって「お前、いるか?」と訊くので当然「いる」と言って貰ったが、あれはもしかしたら他の女の人と行った時に入手したのかもしれない。

 そうだ、この滞在の時だ。後楽園のホテルを出るのに、2人でエレベーターに乗っていたら、途中の階で、露出度は高いのにちょっと薄幸そうな感じの若い、小柄な女の人が乗り込んできた。その途端、けんけんがあからさまに怒気を放って、というかハッキリ舌打ちをしてクルッと背を向けた。ギョッとしてその人を見れば、大きな、何やら道具の入ったような黒いナイロンのトートバッグを肩に掛けていたが、彼女は別に何も悪くないのになァ、と可哀そうに思ったのを憶えている。

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