優れた歴史小説は、結果的に「現代性」を帯びる
――歴史小説における「現代性」というものを考えることはありますか?
小川:僕は歴史小説を書く人が現代性を意識する必要はないと思っています。優れた小説であれば、必然的に人間の普遍性が浮かび上がってくる。人間を描いている以上、1000年前も今も変わらない部分があるはずです。『白鷺立つ』も、見栄や嫉妬、承認欲求といった普遍的な感情を頼りに、何百年も前の出来事を描いていますよね。作家が頼りにするものが普遍的であれば、必然的に現代性は浮かび上がってくるものだと思います。
住田:なるほど。以前、「時代小説であろうと現代性がないものは成立しない」というような話を聞いて、それを意識しなきゃいけないんだと思っていたんです。でも今、小川さんにそう言われて、そりゃそうだよな、と。書こうとしているものがちゃんと書けていれば、自然と現代の人に刺さるものになっていくだろうなと、思い直しました。
作家と読者がそれぞれ持つ「小説法」
――小川さんは10月に新刊『言語化するための小説思考』を出されます。その中で「小説法」という言葉が出てきますが、これはどういうものでしょうか?
小川:作家や読者は、それぞれが小説に対する「小説法」、つまり“法律”を持っていると僕は考えています。例えば、ご都合主義をどれくらい許容するか、といったことに対して、人それぞれ基準が違いますよね。僕はデビューしてから、その違いをすごく感じました。
作家側が「これは違法だ」と厳しくルールを課していても、読者からすれば誰も気にしていない、というケースもたくさんあります。だから、職業作家として、自分が厳しすぎる部分は少し緩やかにし、逆に自分が甘く見がちな部分は絶対に踏み外さないように心がけています。
――住田さんは『白鷺立つ』を書く上で、ご自身の「小説法」としてこだわっていたことはありますか?
住田:そんなものはないと思っていたんですが……今、小川さんのお話を聞いて、一つありました。「言った」「聞いた」「喋った」という単純な動詞は極力使わないようにしていましたね。
小川:ああ、それは書き手がすごく気にするけれど、読者はほとんど気にしていないという、アンバランスな法律の代表例ですね(笑)。セリフが何度も連続しないようにする、とかもそうです。
住田:あっ、それも自分に当てはまります……。
小川:作家側は気にする人が多いですが、読者からすればテンポよく会話が進んだ方が読みやすい場合もある。そうやって読者の反応を見ながら、自分の法律を改正していく。その人の作家性は、どこを厳しくして、どこを甘くするかというバランスで形作られていくのかなと思います。

