「新日本を辞めたいです」「なんでだ?」

 だから俺は猪木さんに直接言ったんだよね。『新日本を辞めたいです』って。そしたら猪木さんが『なんでだ?』って聞いてきたから、『ここにいても強くなれません。子供の時に観たアントニオ猪木が大好きでここに来ました。だけど今のままでは強くなれません』って。そしたら『なんで強くなれないんだ?』って聞かれたんで、道場の文句を言ったんだよ(笑)。『道場がこういう状況なんで、強くなれません。強くなれる環境に行きたいです』って。で、その時にハッキリ言ったんだよね。『僕はUWFに行きたいです』って。『新日本で強いと言われてた人たちが全員あそこにいます。僕はあそこに行って、あの人たちよりも強くなりたいです』っていうようなことを猪木さんに言ったら、その時は『ちょっとこの話はもう一回しよう』って言われて終わったんだよね。

 でも、あの時、猪木さんに直接言えたのはよかった。あれだけお世話になったのに、黙って辞めるようなことにならなかったから。

 結局、俺は89年3月に新日本を辞めてUWFに行って、さらに藤原さんにくっついて行って藤原組になって、今度はそこでカール・ゴッチさんと出会って。そのあとは同じ道をたどっていた船木さんと一緒にパンクラスをつくって10年間いたんで。キャリアの前半15年は、自分の思い描いていたプロレスの道を行っていたとは思うよね。

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 その後、20数年前にプロレスの世界にまた戻ってきたんだけど、それはやっぱり若手の頃の新日本道場を経験した原体験があったから。そういう意味では、あの時代の新日本道場での日々があったからこそ、その後の俺があるのは間違いないと思う。いい経験も悪い経験も含めて、すべて必要なことだったのかもしれないな」

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