「正直言うと、憧れていた新日本の実態に幻滅していた」

 新日本において、総帥・アントニオ猪木の付き人を務めるということは、一種のエリートコースだ。しかし、鈴木みのるは猪木の付き人を務めることで、自分の中の“猪木イズム濃度”がますます濃くなり、皮肉にもその思考は所属する新日本ではなく、自然と「プロレスは闘いである」という猪木の考えをより強く反映したUWFへと向かって行った。

「『昭和の新日本道場は厳しかった』とかよく言われてるでしょ。でも、これは今だから言えるというか、当時なら口が裂けても言えなかったことだけど、昭和末期の新日本道場は若手にキツいことをやらせるだけで、ちょっと上になるとやらなくなるという、道場としてはダメな時期でもあったと思うんだよね。

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 若手にキツいことをやらせるのも、鍛えようと思っているというより、猪木さんに『ちゃんとやってますよ』って見せるためのご機嫌取りだったんじゃないかと感じる。そういう意味では、新日本が腐りかけていた時期でもあったんじゃないかな。だから俺はデビューから1年も経たずに新日本を辞めて、UWFに行ったわけだから。正直言うと、憧れていた新日本の実態に幻滅していたんだ。