旅は、特別なものではない

 どういうことか。まず、『旅と日々』における「旅」には、「特別なもの」という感触が薄いことがあげられる。いま述べたように、後半、映画の主人公である李は雪山へ行き、そこで見つけた宿にしばし逗留する。しかし、宿では目立つようなことは何も起きない。宿は電化製品もほぼなさそうな、まさに掘っ立て小屋といった趣だ。気だるげな主人・べん造(堤真一)は、李の質問にも煙に巻くような返答をするのみで、李のために布団を敷くようなこともない。また豪華な食事や、その土地ならではのスポットを味わう機会があるわけでもない。じっさい、旅の終わりに地元の青年と話した李は、彼女が旅らしい旅をしていないことに、青年からけげんな表情を向けられる。

©2025『旅と日々』製作委員会

 また、海辺での場面においても、同様に「特別なもの」を思わせる側面は見えにくい。冒頭における、さんさんと太陽が輝くいかにも観光地然としたビーチの姿こそ、旅の定番といった印象はあるものの、そこに居心地の悪さを感じた少年(髙田万作)とともに、舞台は早々に人気のない岩礁へと移っていく。少年はそこで出会った若い女(河合優実)に、真っ白な死体がこのあたりに打ちあげられてきたエピソードや、ずっと不幸な感触を覚えながら生きてきた自身の道のりを、なぜか初対面にもかかわらず語っていく。天候の悪さや日没などで、まわりが薄暗さに包まれていることもあいまって、海辺におけるふたりの「旅」は、一見すると旅のもたらす幸福感やあたたかみとは真逆の、いささか暗い色合いのもののようにも思えてしまう。

©2025『旅と日々』製作委員会

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 加えて、李の「日々」は、それ自体が「特別なもの」と呼びえる一面がある。それは彼女が韓国人であり、ある程度の年齢を重ねたのちに日本を訪れたという背景に起因している。李の「故郷を離れてから旅について考える」といったモノローグからも、李が日本での日々を、「旅」の延長線上のもののようにとらえていることは自然と推察できるだろう。いわば、旅から「特別なもの」という地位が剥奪され、また日々に「特別なもの」という地位が新しく付与されることで、両者はほぼ同じ位相にあるもののようにも捉えられてくるのである。