また、生と死の円環でもある。それを象徴するのは、佐野史郎が演じる教授の存在だ。中盤、映画の上映会を終えたのち、おそらくは李にさまざまな助言を与えていたであろう教授は倒れ、そのまま死を迎える。しかし、続くシーンでは、その遺影が飾られた家において、彼は何事もなかったかのように会話をしている。実は教授は双子であり、家にいるのは残された片割れであることが示されるが、ちょうど前半パートの終わりに教授が生を終える一幕が訪れ、そののちに容姿の寸分たがわない人物があらわれることで、死者がふたたび生まれ変わったかのような、輪廻転生のような印象がここからは醸成される。
そうした輪廻転生の縮図は、前半での少年による若い女への、生と死をめぐる語りにもあらわれているだろう。少年はまず、ふたりがいる海辺は自身の母親が生まれた場所であることを語り、そののち、この近くで子どもを抱いた女の水死体があがったことを語る。この流れはつげ義春の原作(『海辺の叙景』)の通りではあるものの、映画では少年が母のルーツを語る直前に、ふたりが頭のない魚の死体を発見し、それが印象的にクローズアップされる場面があらわれる。つまりこれらの場面では、順序として「死→生→死」という構図が短い時間で示され、生と死が繰り返されるような感触が生起するのだ。ふたりの語りのなかに、悠久を思わせる波の音が付随し続けることも、そのような感触の強化にまた寄与しているだろう。
「久しぶりに楽しいと思いました」
しかし、本作におけるもっとも重要な円環は、おそらくは感情の円環である。本作では活力を失いがちだった李という脚本家が、ふたたび力を取り戻すまでの過程が、円環のもとで示されるのだ。
話を少し戻すと、前半における少年は、自身が何をやってもうまくいかず、「むちゃくちゃ不幸」であることを女へと吐露する。しかし、海辺や森の中を歩きながらの、女との断片的な会話の中で、少年は「今のままがいい」と口にするようになる。みつまめを食べ、荒海のなかを無心に、しかし力強く泳ぐ少年と、彼に声援を送る若い女の姿からは、いつしか少年が何かの救いを得たかのような、不思議なあたたかみが感じられてくる。
そして後半における李の姿は、いわば少年の写し絵であるかのようだ。上映会後のティーチインで「私には才能がないと思う」と語り、べん造に「私はだめかもしれない」と吐露する彼女の姿には、生活の行き詰まりや、自己肯定感の低さが見て取れる。


