「円環」というキーワード
監督の三宅唱は、プレス資料でのインタビューで「タイトルの『旅と日々』は、旅と日々を別の時間として切り分けるものではなくて、その繋ぎ目のなさを捉えるための言葉だと考えています」と語っている。この「繋ぎ目のなさ」を理解するうえで要となるのは、おそらくは「円環」というキーワードである。いわば「旅」と「日々」は、同じ円の中にある存在であり、それゆえに重なりを見せることもあれば、逆に離れたもののように感じられることもある。
具体的に見ていこう。ひとつは、言葉をめぐる円環である。作中では、李自身がモノローグとして、自身の中での「日常」と「旅」の定義に言及する場面がある。それは以下のような定義だ。
「日常」=周囲のモノや感情に名前を与え馴れ合うこと
「旅」=言葉から離れようとすること
つまり、ざっくり整理すれば、日常とは言葉に囲まれたものであり、旅とはその言葉から距離を置くものだ、とは言えそうである。しかし、定義は真逆だとしても、ここでの「日常」と「旅」もどこかではまたつながりを見せることとなる。なぜなら、旅によって言葉から距離を置いたとしても、それが一時的なものである以上は、どこかで言葉へとふたたび回帰しなければならないからだ。
言葉にはじまり、言葉に終わる
そして、『旅と日々』はまさに言葉にはじまり、言葉に終わる。具体的には、本作は李がノートに脚本のシーンを書く場面にはじまり、夏の海と冬の山へのふたつの旅――李の言葉を借りれば、言葉から離れる経験――を経て、ふたたびノートに言葉を書き連ねる場面に終わる。作中では、李の旅は「書くこと」に行き詰まりを感じた彼女が、しばしの休息として行ったものであることが示唆されるが、つまり本作は構図として、言葉から一度は離れた脚本家が、ふたたび言葉に向かうまでの円環を描いた作品とも形容できるのである。
