移民にはドイツ語教育がなされなかった

 ドイツの移民受け入れは戦後復興期の1950年代に始まった。最初はイタリア、ギリシャ、スペインから労働者を受け入れ、最後にトルコ人が加わった。

「トルコ政府が依頼して、余っている労働者を受け入れませんかということで、ドイツも確かに必要だから受け入れたんですね。だけどその時は数年限定だった」

 

 マライさんが説明するように、当初は「ガストアルバイター(ゲストの労働者)」として一時的な受け入れだったが、優秀な働きぶりから契約が延長され、家族の呼び寄せも認められ、結果的に定住が進んだ。

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 しかし問題も生じた。労働者に対するドイツ語教育や文化的講座は「どうせ帰るし、まあいらないよね」として提供されなかった。その結果、家庭ではドイツ語を使わず、子どもたちもドイツ語を覚えないまま小学校に上がることになった。

無視による「平行社会」の形成

「それで平行社会ができたんですね。トルコの文化のままで暮らせるようなコミュニティが出来上がってしまって、ドイツ人は、そこにはノータッチでドイツ人同士だけで暮らしてるみたいな」

 

 マライさんはこの「平行社会」の問題を指摘する。より深刻なのは、そこで起きる問題に対する当時の対応だった。

「リベラル派は『多様性や共生はうまくいく』という理想を掲げていたため、移民を招いて起こる問題は、都合の悪いものでした。そのため、問題を直視せずに無視してしまった」

 この「無視」が問題を放置し、2000年代になってようやくドイツ政府は「ドイツって移民国家でしたよね」と認めることになった。

2000年代に始まった「統合コース」の限界

 2000年代から始まった「統合コース」(移民向けのドイツ語講座・文化講座)について、柳原さんは「どうしても場当たり的な面はすごくある」と評価する。

 より構造的な問題として、柳原さんはドイツ社会の「階層化」を挙げる。

「階級じゃなくて階層化というか、職業の集団があったら、その集団の中はすごく平等というか平準化されているんですけども、一個違うところに行ったらまた違う世界がある」

 

 ミュンヘンを例に、「街中は簡単に言ってしまえば、白人ばかりなんですよ。郊外鉄道で終着駅とか、地下鉄の終着駅とかに行くと移民街が急に広がる」と説明する。

「住み分け、みたいなものが上手い。(他の階層を)見えなくしてしまう」