伊藤 頭木さんの『痛いところから見えるもの』は、社会や文化が痛みに参入するときの“定番化した語り”――文化がかえって邪魔してしまう部分を、もう一回生理的なレベルに戻して、文化とつなぎ直している本だと思いました。経験からくる生理的な部分と、たくさんの文学や思想家のテキストの引用から、痛みと文化の関わり方をつないで「新たな道を作っている」と強く感じた一冊です。

頭木 ありがとうございます。今日ぜひお聞きしたかったのは、伊藤さんは障害や重い病を抱えた当事者に数多くインタビューされてきましたが、そのなかで痛みを抱えた人たちについてはどんなことを感じてこられましたか?

頭木弘樹さん 撮影・杉山拓也(文藝春秋)

痛い人がたびたび口にする動詞――「壊れる」

伊藤 実は、私はいろんな方にお話を聞くなかで、言葉のとくに「動詞」が気になってしまうんです。動詞って、ひときわ使う人の実感がこもりますから。痛い人がたびたび口にする動詞で、頭木さんもさらっと使っている動詞が「壊れる」。

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 本書では、難病の歌人、笹井宏之さんの「廃品になってはじめて本当の空を映せるのだね、テレビは」(『えーえんとくちから』所収)という短歌を引きつつ、入院中に窓の空を眺めて、「『壊れたねえ』と友達に言われ、本当に壊れてしまったなあと自分でも思っていた」と振りかえる記述が出てきます。

 この「壊れる」「廃品になる」という自分の体にたいする感じ方が衝撃的で、実際、私がインタビューをした方々のあいだでも「体が壊れる」という表現を何度か耳にしてきました。「壊す」ならわかるのですが、「壊れる」という言葉には、どこか自分のあずかり知らないところで、自分というマシンが不可逆的な形でシステム崩壊してる、というニュアンスがあり、そういう表現を使わざるを得ないほど追い込まれていると感じます。

 つまり、私の見えている世界って、「生きていたら治る」ことが想定されているレベルですが、「壊れる」はもう「治らない」感じが伝わってきて、ショックを受けてしまう動詞のひとつです。

頭木 「動詞」が気になるって面白いですね。ぼくにとって「壊れる」という言葉は、実感としてすごくぴったりきます。潰瘍性大腸炎になってすぐの頃、友達が「お前、壊れちゃったな」って言ったんです。そのとき、ああ本当にそうだな、と思いました。

 大江健三郎の評論に『壊れものとしての人間』という本があって、元はレヴィナスから来ている言葉のようですが、じつにしびれるタイトルです。人間はガラスのランプのようで「いずれ割れる」、壊れていないほうがむしろ不思議という感じすらします。だから、家のなかの壊れかけたものがぜんぜん捨てられないんですよね。テレビにしろパソコンにしろ。破れた普段着も限界まで着ています。

――なるほど。

明けない夜を生きていく「治らない」人々

頭木 普通の人は病気って「治る」か「死ぬ」かだと思っています。そして、多くの人は風邪などで「病気になって治る」という体験をくり返してきています。そこから、明けない夜はない、つらいこともいつか乗り越えられるという実感を身に着けています。ところが、ぼくらみたいに「治らない」と宣言された者たちは、明けない夜を生きていくわけです。乗り越えられないまま生きていくわけです。そういう生き方のロールモデルはなかなかありません。世の中に流布する物語のほとんどは、困難克服物語なので。