伊藤 壊れたまま生きるというのは、たとえば自分のスマホが故障したときのように騙し騙し使うような感覚なのか、あるいは壊れたなかでも「こことここは使える」と解像度を高めて付き合っていく感覚なのでしょうか。
頭木 本でも少し引用した古今亭志ん朝の落語に、ボロボロな長屋の戸が開かないんだけど「上を叩いて下を蹴って真ん中をしっかりと持ってスウーって引くと開く」といった表現があります。もうダメといえばダメだけど、どうにかこうにか工夫すれば出入りできる、みたいな感じですね。
伊藤 ここまでのお話を聞いてふと思い出したのが、アーティストの片山真理さんの言葉です。彼女は生まれつき両手足に形成不全があって義足を使っているんですが、「足尾銅山」にすごく親近感を覚える、と対談のときに語っていました。
頭木 足尾銅山に!?
伊藤 昔、開発されまくって公害にもなり、今は植林されて「人工的な自然」みたいになっている足尾銅山は、医療やテクノロジーに介入された自分の体と非常に似ている。自然さとか元々の姿とかはもうよくわからない、と。「人工的な美しさ」を探していく体に対するスタンス、そこに仲間を見出すんだ、という話に衝撃を受けました。
ほかにも、原因不明の体調不良が何十年も続いている方は、現代医療の言語では説明がつかず「仲間がいない」。そうすると、例えば「戦争に行ったおじいさんの苦労が、父を経て自分に影響してるんじゃないか」とか、戦争経験者や遠い国で独立運動をしているような人たちに親近感をもって、思いがけない仲間を引き寄せていくんです。そこには文学的な想像力に近いものを感じることがありますね。
「この痛みを知っている人がほかにもいる」ことが救いになった
頭木 痛みはすごく孤独を感じさせるものです。この痛みや苦しみを感じているのは、もしかすると世界で自分だけかもと思ってしまうと本当にやりきれない。そんな気持ちのとき、ある医師から「誰とは言えないけれど、じつは病院内にもうひとり同じ状態の人がいますよ」と言われて、天から光がさしてきたように感じたことがあります。
伊藤 とても不思議なことですね。
頭木 不思議です。それで自分の痛みが減るわけではないのに、「この痛みを知っている人がほかにもいる」と思うと、とても救われた気持ちになりました。
伊藤 本のなかでけっこう印象的だったのが、病室が同じだった人が頭木さんを訪ねてきたシーンでした。退院した人がお見舞いに来ているつながりに少しびっくりして。
頭木 退院後も薬や検査で通院があるので、そのついでに来てくれるんですよ。生き死にの時間を共に過ごした独特のつながりから、こういう言葉はあまり好きでないのですが“戦友”のような感じになるんですよね。気が合ったりしなくても、それどころかぜんぜん気が合わなくても、強いつながりができることがあります。
伊藤 一方、いろいろな方のインタビューをしてきたなかで、同じ障害や病気を抱えた者同士で深くわかりあえる部分があるのと同時に、コミュニティによっては互いの仲が悪くなってしまうケースもよく聞いてきました。たとえば社会の側が同じ「視聴覚障害者」とくくるなかでも、全盲と弱視の方はかなり違います。だから普段友達としては仲がよくても、互いの立場で話す場面になると喧嘩になるようなこともあります。
どういうコミュニティが当事者にとってちょうどいいのかは永遠の課題ですが、病院の大部屋というのはとても興味深い関係性ですね。
