自分の理解を超えた“ままならない体”の可能性
頭木 同病相憐れむと言ったりしますが、同じ病気だと互いの差異が気になってしまうんですよね。相手のほうが軽いとか、病状がちがうとか。ぜんぜんちがう病気の人と話をすると、かえって共感し合えることがあります。困りごとって共通することも多いんですよね。そして、自分の病気や相手の病気に対する見方が変わることもあります。
病気とか障害って、やっぱり否応なしに、自分の体をコントロールできないもどかしさを強く意識させられます。でも伊藤さんはご著書の『体はゆく』のなかで、「自分の体を完全にはコントロールできないからこそ、新しいことができるようになる」と書かれていて、すごく感動したんです。“ままならない体”の可能性を、新しい視点から見せてくださいました。
伊藤 私は常にどこかで「体にびっくりさせられたい」と思っているんです。自分の理解できる範囲を体が超えている状態に可能性を見出したい。もちろんそれが痛みとして現れるのは困るのですが、体の持っているポテンシャルに任せたときに何か新しいことができるようになったり、自分が思ってもみなかったような出会いがあると思っています。
体の障害や事故や病気というテーマも、そう捉えることで自分の中で整理してきたところがあって、常に「体には先にいってて」ほしい。
頭木 障害や病気が体の別の可能性を開く可能性って、たしかにあるのかもしれませんね。いろいろな問題を体が乗り越えようとすることで、思いがけないことが起きるかもしれませんから。そこはできれば期待したいですね。
伊藤 私の考え方は「体性善説」というか、体を信じてあげるタイプの付き合い方だとは思っていて、もちろんそれでは済まない部分も沢山あると思います。毎日の体調の変化や痛みなどが予測もつかない度合いで大きくなった場合、そんなことも言ってられないですよね。ままならぬ体は本当に厄介ですが、それを面白く生きたいなとは思いますよね。
頭木 体は壊れものだし、ままならないし、でも、びっくりさせてくれて、先に行ってくれるかもしれないわけですね。今日は体をめぐる新鮮な視点をいろいろうかがえて、とても楽しかったです。
伊藤 こちらこそありがとうございました。
