暴力によって自分が変えられてしまうことの怖さ

──書店員さんのコメントですごくあったのが、「とにかく怖い」と。「早く抜け出したくて急いで読みました」とか、「読み終わるまで寝られなかった」とか。葉真中さんの作品の中でも過去最高に怖い作品だと思うんですよね。ここが怖いというより、ずっと怖い。この作品を書かれる時に、怖さを意識しながら書かれたんですか?

葉真中:この事件を小説化するにあたって、私はエンターテイメント作家なので、何で読者を引っ張るかっていうのは考えるわけです。これは結構早い段階で「恐怖」だろうと。

 怖さって色々あって、この作品の場合は、ほとんどが人間と人間の関係の中の怖さ、いわゆる「人怖【ひとこわ】」の部類です。で、考えていった時に、自分が一番怖いものって何だろう? と思った時に、ものすごく単純な話ですけど、「暴力だよね」と。

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 まず肉体的に痛い。さらに、それによって支配されてしまう怖さ。もうちょっと言うと、暴力によって自分が変えられてしまうことの怖さってあるよね、と。人間はみんな「自分はこういう人間だ」っていうアイデンティティを持って生きている。だけど、目の前に暴力をちらつかされて、本当はこっちを選びたいのに「お前はこっちを選べ」って言われて選ばされた時に、もう自分は自分じゃなくなっている。

 その本質的な恐ろしさが、暴力の恐怖の根源な気がするんです。この小説の中では、暴力の怖さを背景に、登場人物たちが自分を変えられていってしまうことの恐ろしさを、いろんなところにちりばめられたらいいなと思って書きました。

──この作品では「民事不介入」もかなり大きなキーワードですが、これが悪いと単純に断じているわけではないように感じました。いつも社会的な課題を作品に込めている葉真中さんですが、そこは過去の作品と違うところかなと。

葉真中:そうですね。もしこの事件で社会課題を浮かび上がらせるとしたら、警察の問題になるんですけど、今回そこには主眼は置いてないんです。ただ、現実の事件をなぞる上で、どうして警察が介入しなかったのか、その理由はちゃんと書かなければいけない。

 でも、この小説ではそこが主眼ではなくて、むしろこうやって何度も警察に頼ろうとするんだけど、どこかで阻まれてしまう、あるいは諦めてしまう。警察に行くこと自体をやらない、という選択をしてしまう。そういった時に、これって選んでるのか、選ばされてるのか。ある種の運命的な恐ろしさを表現するための警察なんです、この作品では。

 

「ひたすら長い停滞があった平成の30年だった」

──最後に一つお伺いしたいんですが、この尼崎事件は平成の中でも最大級に凶悪な事件の一つだと思うんですが、葉真中さんにとって平成というのはどんな時代でしたか?

葉真中:僕はいわゆるロストジェネレーション世代なので、平成のイメージは、どんどん社会から活力が失われていった時代だなっていうのは正直あります。始まった頃はまだバブルで、大人たちの調子いい感じとかありましたけど、社会に出るぞってなったらもうバブルが崩壊してて、それから「失われた20年、30年」となる。

 バブル崩壊直後にオウム真理教の事件と阪神・淡路大震災が起きて、あの時って、バブル崩壊後に社会の底が抜けたなっていう感じをみんなすごく感じたんだと思うんです。その底が抜けっぱなしのまま10年ちょっと経った2011年に東日本大震災が起きて、その年の暮れにこの事件の端緒が開かれる。

 僕の感覚としては、そうやって抜けきった底の中で、さらに僕たちが自明のものとして安全安心と思っていた「家族」っていうものさえも、これほど脆いのかっていうのを見せつけられた。すでに底が抜けてしまった後の社会で、さらに降りかかる厄災みたいな。そういう印象のなかで尼崎事件や東日本大震災が連続して起きたなと。

 だから、ちょっと暗くなってしまうんですけど、やっぱり底が抜けて、ひたすら長い停滞があった平成の30年だったなっていうのが、僕の偽らざる思いですね。

──ありがとうございます。大変面白い話でした。葉真中顕さんの『家族』は文藝春秋から発売中です。一つの事件から、人間とは何かということを深く考えさせられる内容になっておりますので、ぜひ読んでいただければと思います。

対談の様子は「文藝春秋PLUS」でご覧いただけます。

家族

葉真中 顕

文藝春秋

2025年10月24日 発売

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