45年間にわたり、「ヤクザ」と呼ばれる人々を取材してきたフリーライターの山平重樹氏。そんな山平氏が、ヤクザたちの意外な素顔や、これまで世に知られていないエピソードを綴った著書『私が出会った究極の俠たち 泣いて笑ってヤクザ取材45年』(徳間書店)を上梓した。
ここでは、同書より一部を抜粋し、戦後の横浜愚連隊のカリスマとして語り草になった伝説のヤクザ「モロッコの辰」こと出口辰夫氏の素顔を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
◆◆◆
「堂々と大金を巻きあげるようなことをやってのける」モロッコの辰は古典的な愚連隊そのもの
マヌケな話ではあるけれど、私がそのことに気がついたのはつい最近で、えっ、そうだったのかと、さすがに声はあげなかったものの、思いがけない発見にビックリしたものだ。
それは何かというと、モロッコの辰こと出口辰夫と銀座警察の高橋輝男が、同じ大正12年生まれの同期、亡くなった年もモロッコが昭和30年1月、輝男が翌31年3月と、まったく同じ時代に生きていたという事実である。信じられなかった。
私は長い間、モロッコのほうが一世代くらい前で、輝男があと、てっきり2人は別の時代に生きた人であるとばかり勘違いしていたのだ。とんだ思い違いもいいところだった。が、それくらい2人の生きざまは対照的で、さながら昭和と令和の時代ぐらいの開きがあるように思えるのだ。
モロッコの辰は古典的な愚連隊そのもので、シノギは恐喝一本、「モロッコの辰」の名刺の裏に《金〇〇万円拝借仕り候》と書いた一種の請求書を舎弟に持たせて、大親分のもとに行かせ堂々と大金を巻きあげるようなことをやってのける男だった。
一方の高橋輝男は博奕を嫌い、九州の硫黄鉱山や東京の青果市場を経営したり、映画製作やボクシング興行にも手を染めるような近代ヤクザそのものであった。
同じヤクザでありながら、これほど強烈な個性を持ち、まるで次元の違う世界に生きた両者というのも稀であったろう。両者の物語を書き、双方の多数の関係者を取材しておきながら、私が同時代人ではないと錯覚していたのも、むべなるかな。
が、そこでまたハタと考えたのは、果たして両者はまったく交流がなかったのであろうか。もしかしたら、法要とか放免祝い等の義理場で顔を合わせることもあったのではないか。
