45年間にわたり、「ヤクザ」と呼ばれる人々を取材してきたフリーライターの山平重樹氏。そんな山平氏が、ヤクザたちの意外な素顔や、これまで世に知られていないエピソードを綴った著書『私が出会った究極の俠たち 泣いて笑ってヤクザ取材45年』(徳間書店)を上梓した。
ここでは、同書より一部を抜粋し、戦後の横浜愚連隊のカリスマとして語り草になった伝説のヤクザ「モロッコの辰」こと出口辰夫氏の素顔を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)
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「モロッコの辰と一緒になったのは、16歳の時…」元夫人・おふじさんの切ない話
「横浜愚連隊物語 モロッコの辰」を書くため、私は多くの関係者から取材させて貰い、お世話になったけれど、やはりモロッコの元夫人であるおふじさんの話はなんとも切なかった。
私がおふじさんと会ったのは昭和62年春のことだが、彼女は開口一番、
「もう死んで30年以上経ってるのに、夢に見るんですよ。辰ちゃんはまったく変わらぬ姿で出てくるんです。どんなに近い人でも死んだ人の夢なんて見たことがないのに、なぜだろうと不思議に思って、真夜中でも起きて仏壇にあかりを入れるんですよ。お線香をあげて欲しいのかなとも思って……」
としみじみ言ったものだが、いまだ「辰ちゃん」と呼ぶのも、彼女の中では何ら時が経ってないということの証しなのだろう。
おふじさんがモロッコの辰と一緒になったのは、昭和18年、16歳の時、別れたのは23歳の時で、およそ8年の短い結婚生活であったが、戦中、戦後の激動期、モロッコとの暮らしはおふじさんにとって悲喜交々、30年経っても忘れられない日々となったのだった。
「長男を結核で亡くしてしまってね」息子が亡くなり、号泣したモロッコの辰
「一緒になって1年して長男が生まれました。辰ちゃんの名前をとって龍彦と、あの人が名づけたんですが、4つの時、結核で亡くしてしまってね、辰ちゃんのが感染ったんです。私も泣いたけど、辰ちゃんの嘆きようといったらなかったですよ。霊柩車に乗せようという時、彼は住んでた家の柱にすがって号泣してましたから」
終戦直後のことで、結核の特効薬であるペニシリンもなかなか入手できず、モロッコの慙愧の念、無念さはいかばかりのものであったことか。何より自分のせいで息子を死なせてしまったということが、モロッコには耐え難い苦しみとなったのであろう。おふじさんがこう続けた。
