45年間にわたり、「ヤクザ」と呼ばれる人々を取材してきたフリーライターの山平重樹氏。そんな山平氏が、ヤクザたちの意外な素顔や、これまで世に知られていないエピソードを綴った著書『私が出会った究極の俠たち 泣いて笑ってヤクザ取材45年』(徳間書店)を上梓した。

 ここでは、同書より一部を抜粋し。「安藤組」を立ち上げて数々の伝説を残し、安藤組解散後は映画スターとして活躍した安藤昇氏の素顔を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く

安藤昇氏(写真提供=徳間書店)

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「元安藤組組長」の肩書きを持つ銀幕スター・安藤昇

 私は若い頃、出身大学を問われると、よく口にしていたのは、

「安藤昇に憧れて法政に入りました」

 というもので、大概は冗談としか受け取られなかったが、私の中ではかなりの部分、本当であった。当時の法政は、隆盛を極めた学生運動の本場であり、新左翼過激派・中核派の拠点校としても知られていた。が、それ以上に、あの安藤昇が一時在籍した大学であるということのほうが、私にすれば、重大事であったわけだ。

 いまだ政治的熱狂の冷めやらぬ時代であり、連合赤軍によるあさま山荘事件が勃発した年の入学組にしては、なんとも吞気な話には違いないが、それくらい彼への思い入れは強かった。

 単なる銀幕スターへの憧れというより、元安藤組組長という肩書きでも知られる、真正不良のヤバさ感というか、他のヤクザ映画のスターにはない、本物だけが持つ独特の風格、匂い、雰囲気というものに、私はすっかり魅了されてしまっていたのだ。

 初めて我が田舎町の映画館で、その存在を知ったのは高校生の時に観た東映の「組織暴力 兄弟盃」であったか、ゲスト出演した鶴田浩二の「日本暴力団 組長」であったか、もう記憶が定かでないが、まず、その三白眼に射すくめられた。何より頰にギラッと走る刀傷といい、その迫力、凄みといったらなかった。

 あの眼に睨まれたら、即座に謝るしかないだろうななどとショーもないことを考えながら、ビデオなどなかった時代、安藤昇観たさ、東映任俠映画観たさに、田舎の古びた二番館にせっせと通いつめたものだった。

 まさか後年、その大スターと対面し、話ができることになろうとは、夢にも思わなかった頃である。