少年時代は太って運動が苦手で、勉強もコツコツやらないと成績が伸びない三男・宏高氏。そんな彼を、父・石原慎太郎氏は安易に批判せず、ありのままの才能を認めて育てた。その教育が、宏高氏のその後の人生にどのような影響を与えたのか?
四兄弟(石原伸晃・良純・宏高・延啓)が、それぞれの視点から家族の記憶・想い出を綴ったエッセイ集『石原家の兄弟』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)
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子供を安易に批判しなかった父
「友だちが一人もいないことをほめてやれ」「親孝行する時間があるなら、自分のことをしろと教えよ」「子どもに塗り絵を与えるな」。これらは、子供の自主性を大切にすべきだということを、父ならではの言い方で表現したのだろう。
確かに父は私たちを安易に批判しなかった。他の三人の兄弟には瞬発力があって、肉体的にも精神的にもここぞという時に力を発揮する。しかし私は小さい頃は太っていて、庭の小さい坂も上れない。勉強も一夜漬けは苦手で、コツコツやらないと良い成績が取れない。それでも父は私を認めてくれた。ただし、肥満金魚とあだ名を付けられたが。
「時代を越えて変わらぬ価値のあることを教えよ」、これに関しては、思い出がある。社会人になった頃、月1回、日曜日に放送される「日高義樹のワシントン・リポート」という番組を実家で見ていた時のこと。クリントン政権で財務長官を務めたロバート・ルービン氏の「世界がひとつになれば、人類は最も効率的に行動できる」との発言に感心して、そのことを父に話した。
父は「お前は馬鹿だな。日本はモノづくりに長けている。日本が独立しているからこそ、その長所を活かして自動車や電気製品を海外に売って豊かに暮らしている。もし世界がひとつになったら、日本人はアングロサクソンやユダヤ人にいいように使われる。幸せにもならないし、日本固有の文化もなくなってしまうよ」と言い放った。自分の浅はかさを恥じた。
