作家であり政治家だった父・石原慎太郎が亡くなって3年。逗子の実家も手放し、かつての「石原家のお正月」はどう姿を変えたのか? 父亡きあとの「石原家のお正月」を、四兄弟(石原伸晃・良純・宏高・延啓)が、それぞれの視点から家族の記憶・想い出を綴ったエッセイ集『石原家の兄弟』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む

父・石原慎太郎が亡くなって、「石原家のお正月」はどう変わったのか―― ©文藝春秋

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石原家も次のステージに移った

 私たちは長ずるにつれて、コンサート会場でカウントダウンを聞きながら、スキー場でバイトしながら、あるいは初日の出を見に行く為に友人宅に集合して酒を飲みながら、色々な形で新年を迎えるようになっていった。

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 そして更に時を経て、四人の兄弟が自分の家庭を持つようになった後の年末年始には、再び両親がいる逗子の実家を訪ねるようになった。それぞれの家族が少しずつ時期をずらして、かつて祖母が暮らしていた同じ敷地内の「離れ」に滞在させてもらった。子供の頃の七人家族がいつの間にか大家族になっていて、私は交流する次世代の子供たちを見ながら、石原家も次のステージに移ったのだなと思ったものだ。

 ある年明けに、父から「凄い階段があるぞ」と家の裏の披露山をひとつ越えたところにある小坪の天照大神社を教えてもらった。まだ小さかった長男を連れて初詣に行き、ヒヤヒヤしながら二人して長くて急な階段を漁港に向けて降りていった。披露山公園からハイキングコースを下って浪子不動(高養寺)というお寺にも行った。逗子の実家はもう引き払ってしまったので、正月休みに息子と私が幼い頃の記憶を辿る散歩をしたのは貴重な思い出になった。

 今年は久しぶりに我ら四人家族で旅行して、新年を草津温泉で迎えることになった。昨年は「あー、俺はいいや、行かない」と思春期ぶりを発揮していた長男も大学生となり参加してくれた。

 コロナに罹患してキャンセルした家内も今回は参加することが出来た。子供たちが大きくなってきて、旅行はおろか四人揃っての外食も珍しいので、風呂あがりに地酒を飲みながらの和食フルコースはとても満足のいくものだった。

 父が決して観ることがなかった「紅白歌合戦」を皆で鑑賞しながら年越し蕎麦を食べる。中学生の娘はアイドルの番組のカウントダウンを主張したが、こればかりは譲れない、テレビのチャンネルはもちろん「ゆく年くる年」に合わせて年を越した。