清原の望みを聞きたいが、頼みにすると裏切られる
6月2日の日記には〈清原(和博)は(2000本安打達成まで)あと3本になって来た。本人の希望はドームで達成したいと思っているが、明日中には無理である。希望は何とかしてやりたいし、願いは聞いてやるべきだと思っている〉とあった。
その19日後には、〈清原の報告があって、やはり骨折していた。左手第5中手骨斜骨折となってしまって、復帰まで3ヵ月と診断された。今季は絶望となってしまった。やはり必要な選手であるので痛いのは間違いない。現場ではこれを冷静に受け止めて対処しないといけない〉
清原の望みを聞いてやりたいが、頼みにすると期待を裏切られる苦渋に満ちていた。
堀内監督が日記に記した心のままに清原に声をかけていたら、彼やファンはどれだけ癒されたことだろう。うまく励ますことができないところが小天狗らしかったけれども。
その清原をくれませんか、と言ってきたのが、最晩年のオリックスの仰木彬監督であった。イチローらを育て、奇策を駆使した「仰木魔術(マジック)」で賞賛された人でもある。私とは亡くなるまでの1年半ほどの短い付き合いだったが、密談しているという警戒心を感じさせない。信じられる雰囲気を持った人だった。
「清原なら大阪の起爆剤になれるんです。DH制のあるパ・リーグならまだまだやれる。いまのままだったらもったいない。清原の残された力を生かしたいんです」
かすれた声で、「清原はどうしていますか」
当時、巨人のエースだった上原浩治がポスティング制度を活用したメジャーリーグ行きを希望していた。球団がこれを拒んでいるのを知ると、仰木監督は清原トレードと同時に、大胆な上原移籍案を提案してきた。
「巨人はポスティングを容認していないんですよね。だったらまず、オリックスにトレードさせ、そこからメジャーに出してはどうですか」
私は虚を突かれて、「うーん」と唸った。
「上原もそれを望んでいるんでしょう」。監督は畳み込んでくる。
「交換要員には誰を出してくれるんですか」
そう尋ねると老監督は、オリックスが合併しようとしていた近鉄バファローズのエース、岩隈久志の名前をあっさり挙げた。
「しかし、そんなことできますか?」
東京ドームホテルや神戸のホテルで、私たちは清原や上原のことを話し合った。上原の件は、交換トレードの前提となる岩隈が新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスに移ったために夢と消えたが、仰木監督は清原を諦めなかった。
清原がオリックスに移籍したのは仰木監督が70歳で亡くなった直後の翌2005年シーズン終了後だった。かすれた声で、「清原はどうしていますか」とよく電話をしてきた。その声が私の携帯の留守録に入ったままになっていた。私は苦しいとき、それを再生して、天国からの声のように聞いた。
清原と中村紀洋を迎えたオリックスは、大阪ドームに大きく長い垂れ幕を下げた。
〈帰ってきたで〉
その垂れ幕の言葉を、私も口に出して言ってみた。
――清原という千両役者が、あの老監督の激励術に触れていればどうなっていただろうか。みんなびっくりしただろうな。
そんなことを20年後の野球の季節の終わりに考えた。

