42歳のとき、「電撃性紫斑病」という大病を発症し、両脚と両手の指の切断を余儀なくされた久多良木隆幸さん(49)。現在は両脚義足のパラアスリートとして活動し、義足スポーツクラブ「NoLimitOita」の代表を務めている。

 久多良木さんの壮絶な闘病と、その後の人生の変化について、ライター・松永怜氏が詳しく話を聞いた。

病院での久多良木さん(本人提供)

体がブクブクに腫れ上がり、顔や肌も赤黒く変色

 久多良木さんが病気を発症したのは6月のある暑い日だった。当時、住宅リフォーム専門の工務店を経営していた久多良木さんは、現場で急に具合が悪くなり高熱に見舞われた。

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 総合病院に救急搬送されて集中治療室に入ったが、そこからの記憶はほとんどない。駆けつけた妻と2人の娘たちに対して、医師は「一晩が山か、場合によっては一晩もたないかもしれない」と告げたという。

「当時は体重が75キロくらいだったのですが、体の水分調整がうまくいかなくなり、水分だけで一気に約20キロも増えてしまって。体がブックブクに腫れ上がり、顔や肌も赤黒く変色していたと聞きました。

 電撃性紫斑病は全身の血流が阻害され、末端に血が届かなくなって手や足の先から壊死が進行する病気です。手足を切断するケースは珍しくありません」

 その日のうちに両足の足首から下と、両手の指の第一関節から上を切断する手術が行われた。一命をとりとめたものの、意識を取り戻したときには、すでに手足は失われていた。

手足を切断した直後の久多良木さん(本人提供)

 入院生活は1年半にわたり、その間に合計3回の切断手術を受けた。体重は入院前の75キロから40キロ台にまで激減し、一時は「骨と皮だけのような状態」になったという。

 しかし、ここから久多良木さんのパラアスリートとしての人生が始まることになる。

パラリンピック出場を目指してチームを結成

「入院中にInstagramで義足でマラソンを走る人の動画を見て、『これだ!』と心を掴まれました」

 陸上経験のなかった久多良木さんは、リハビリ病院で熱心にトレーニングに取り組んだ。

「お世話になった病院の院長さんや理学療法士、作業療法士の先生たちに手当たり次第声をかけ、『僕と一緒にパリのパラリンピックに行きませんか?』って誘ったんです。そうして集まってくれたのが『チームクタラギ』。サポートメンバーは40人くらいになりました」

久多良木さんのアスリート活動を支える「チームクタラギ」のメンバーたち(本人提供)

 その後、パラリンピックには両脚義足のクラスがないと判明したため出場は断念。今では日本記録更新を目指して全国各地の大会に参加している。

「良かった、悪かったで言えば…」

 病気を発症してから7年。これまでの人生をふり返り、改めてどう思うのか。

「発症からあっという間の7年でしたが、良かった、悪かったで言えば、良かったのかもしれません。

 当たり前の生活って、突然当たり前じゃなくなったりするんですよ。見飽きている景色、自由に動かせる身体、大切な人との時間、どれもいつか終わりが来る。だから、今をどれだけ全力で太く生きるか。楽しめるか。

 僕は42歳で病気を発症して今49歳ですが、生まれてからの42年より病気になってからの7年間の方が濃い日々を過ごしていると思っています」

 失ったものは大きい。だが、久多良木さんが得たものはそれ以上だった。

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 このインタビューの本編は、以下のリンクからお読みいただけます。

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