久美さんが60歳以上だと仮定して話すと、時期は1993年ごろ。おりしも欧州ではEUが設立し、国内では改正風適法施行による派遣型風俗店解禁前で、いまのようにデリヘルが乱立していて老いも若きも風俗で働ける状況にない。限られた選択肢のなかで、残るはフリーで春を売ることぐらいしかなかったと久美さんは持論を述べる。
そして泉の広場では1万円ほどの対価を得て男たちに抱かれた。ときには「2、3万で売れることもあった」と回顧した。
こうして長きにわたり街娼一本で生活を続けてきた、ということか。風呂場でしようとした接客術は、路上に立つまでのヘルス経験で培ったものということか。もっとも、もっと割のいい仕事を求めて上京して東京・新大久保でチャットレディの職などに就いたこともあるようだ。しかし、寄る年波には勝てず、それも長くは続けられなかったらしい。
立ちんぼをやめない理由は…
東京で仕事にあぶれたらまた泉の広場に引き返すという繰り返しだったというが、また時期は曖昧なまでも、最後に行き着いたのは新大久保でのチャットレディ経験のときに界隈を彷徨うなかで知った、ハイジアと大久保公園一帯での売春に他ならない。久美さんが40歳を過ぎたころに娘は成人してひとり立ちした。つまりもう、自分の生活費以上に稼ぐ理由はない。
むろん、もうそのころにはデリヘル開業が解禁されていたなど、少ないながらも探せば熟女であっても雇ってくれる舞台は整っていたことになる。いやデリヘルでなくとも、昼の一般職を模索することはしなかったのか。
「えっ、まあ、長くこの仕事を続けてきましたから……」
そんな大雑把さが、悲惨な結果を招いてしまった。