1985年、チャリティソング「We Are The World」への参加を拒否し炎上したプリンス。しかし彼は反論せず、代わりに新曲「Hello」を通して自らの意思を示す。支援の気持ちはあるが「その場で一緒に歌う」ことは選ばない――。プリンスの名声をさらに高めた、当時の対応をスポーツドクターの二重作拓也氏の新刊『死なない魂 心を解放するプリンスの哲学』(星海社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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「We Are The World」を拒否して大炎上
みんなが賛成している。みんなが手を取り合っている。でも――どうしても、その輪の中に入れなかった。そんな経験はありませんか?
無関心だったわけじゃない。むしろ、心は動いていた。けれど、「その方法」には、どうしても賛同できなかった。胸の奥が、微かに震えるような違和感を無視できなかった。沈黙で、自分の気持ちを守るしかなかった。
世界が「団結」を叫んだ夜。プリンスは、その輪の中にいませんでした。彼はなぜ、そこにいなかったのか? それを知ったとき――私たちが使う「言葉」の意味が、少し変わるかもしれません。
1985年1月28日、ロサンゼルス。この日、ふたつの大きな出来事が、ひとつの夜に重なりました。
ひとつは、アメリカン・ミュージック・アワード。グラミー賞と並ぶ音楽の祭典で、1984~85年はまさに「プリンスの年」でした。映画、アルバム、シングル、ライヴ動員数――すべてで首位を獲得。テレビ中継された授賞式では、《Purple Rain》の演奏中、マイクスタンドを一撃で蹴り倒し、視聴者に衝撃を与えます。
もうひとつは、その授賞式の深夜から始まった《We Are The World》のレコーディング。アフリカの飢餓救済を目的とした、かつてない規模のチャリティソングでした。マイケル・ジャクソン、スティーヴィー・ワンダー、ブルース・スプリングスティーン、レイ・チャールズ、ボブ・ディラン……音楽史に名を刻むスターたちが、スタジオに集結。この歴史的なレコーディングに、プリンスにも声がかかっていました。ソロパートまで用意されていたのです。主催者は何度も連絡を試みましたが――彼は、ついに姿を現しませんでした。
プリンスが《We Are The World》を欠席した。この出来事は、瞬く間に大きな炎上案件となりました。
