自然界がもたらす色の不思議
本書『母なる色』の中にも、そのような色のあり方、色の不思議がいくつも描かれている。たとえば一章「母なる色」の「八 ももいろ──聖なる樹液──」のなかには「本質的に樹の色はもも色だと思っている」とある。多くの植物の樹液がうすもも色だと言うのがその理由である。
桜染めというものを体験したことがある。桜染めといっても、染めるのは花ではない。花では染まらないのだという。使うのは枝である。花の咲く前の枝を煮出すと、液は赤くなり、糸は桜色に染まる。花を咲かせるための「色」を糸に吸わせるようなものだ。花が咲いたあとの枝を煮出しても、黄色っぽい色にしか染まらないのだと聞いた。
そして、「九 緑──生と死──」には、植物で緑に染めることはできないことが書かれている。ふくみ先生はこのことに強い感慨をお持ちのようで、ほかの著作でも触れられている。葉も茎も緑なのに、むかしながらの草木染めではどの植物を使っても糸を緑に染めることはできない。ただ「藍甕につけた白い糸が甕から揚げた瞬間の数秒は信じられぬほどのエメラルドグリーンなのに即刻、空気にふれた部分からその色は消えて青色に変る」ともあり、たしかに不思議としか言いようがない。
二章「山の手帖」にも、こうした色の不思議が登場する。たとえば「七月」の項に書かれた「露草」。露草の花を絞ると青い液になる。友禅染めなどでは、その液を下絵に使う。露草の青は水で濡れると消えるので、本描きを終えれば洗い流される。下絵の役割をまっとうし、姿を消す。それが記した形は本描きに受け継がれ、布に残る。だから消えてしまうが、無ではない。
藍染めは、藍という植物だけでなく微生物の助けで染める。藍甕のなかで微生物が生まれ、老いていく。寿命は数ヶ月で、染める時期によって色合いが変わる。盛んな時期は濃く、終わりに近づけば薄くなる。その最後に出す色が限りなく薄い青「甕のぞき」だが、一章の「十 藍──青」には、「残念ながら私もまだこれこそ甕のぞきと自認する色を得ていない」と書かれている。
向こうからやってきた色
草木染めや藍染めに携わる人たちにとって、色というのは操作可能な装飾などではなく、植物からやってくる命のようなものなのではないかと感じる。向こうからやってきた色しか得ることができない。採れる色は木によって異なり、時期によっても異なる。同じ時期の同じ木を使っても去年と今年では別の色になったりする。
では、その「向こう」とはどこなのか。「植物」ということもできるが、植物はどうやってその色を生み出すのか。植物自身もまた自分の色がどのように生まれるか知らないだろう。だからそれは、命の奥にある、命のもとにある場所からやって来るもののような気がする。
一章のタイトルは「母なる色」。本書巻末の田中優子さんの解説にもこの「母なる色」とはなにか、という問いが書かれている。「母なる色」とはどんな色なのか。はじめはわたしも読みながらその答えを探した。だが、どこにもどのような色だという答えは書かれていない。
読み終えてから、もしかすると「母なる色」というタイトルは、なにか特定の色を指すわけではないのかもしれないと思った。「母なる色」つまり「母である色」。それは「色(命の向こうからやってくる色)というものが(わたしたちの)『母』である」という意味なのではないか。古来、人がそのような色とともにあったことを書き残したいと考えたのではないか、と思った。

