ふくみ先生が歩いてきた道
色をめぐる深い思索とともに、本書にはふくみ先生の生きてきた道が記されている。女性が仕事を持つことについて、そのときどきに目に映る世相について。そこで触れられているのは決して穏やかな日常ではなく、戦地に行って戻らなかった若い兵士であったり、サリンや神戸の少年事件であったり、石牟礼道子さんが著した『天湖』や、ジャパ行きさんについて書いた矢内原伊作さんの詩であったり、その多くがこの世の痛ましい現実である。
二章「山の手帖」に描かれる自然の描写もうつくしいが、死に通じる危険な場所であることも文章から伝わってくる。人はもともと死と隣り合わせに生きている。山の生き物たちと同じように。死から守られている生物などいない。
山の風景はうつくしく複雑だ。自然と付き合うために、自然のなかで生きていくために、人は考えることを学んだのではないか。三章の「手は考える」を読みながらそんなことを思う。人はこれを捨ててどこに行こうというのか、と思う。
人生の先輩が放つ輝き
五章「旅の始まりはまぼろし」の「三 ヘレナ・シェルフベック」にも思わず引き込まれた。なにかこの項には、ほかとは違うたぎるような熱を感じ、その文章がひとりの女性画家の一生をめぐる小説のようにも読めた。老いていくことのなかに命の輝きがある。生まれて、老いて、死ぬ。人の一生は不可逆であり、一種の流れである。この文章を読んでいると、その流れもまた、植物の向こうからやってくる色と本質的に同じもののような気がしてくる。
前を行く人の姿によって、心が熱く燃えるときがある。わたしにとってふくみ先生はそのような存在である。その姿を思うとき、向こうからの光が見える気がする。そうして、掴みどころなく先の見えない人生であっても、命あるかぎり進んでいかなければ、と思う。
