芸事が好きだった母は、家計をやりくりしながら、富司に小さいころから山村流の地唄舞やバレエなどを習わせてくれた。やがて宝塚歌劇団に憧れた彼女は、中学時代には宝塚受験のための学校に1年通ったものの、父が反対して断念する。その代わり、高校時代には大阪の演劇学校に通うようになり、そこで知り合った俳優の紹介で映画会社・松竹のカメラテストを京都の撮影所まで受けに行った。その帰りに、父・俊藤浩滋の勤める東映京都撮影所に寄ると、父からマキノ雅弘監督を引き合わされる。マキノは彼女が女優志望と知って「何や、女優さんになりたいんやったら東映でなったらええやないか」と言ってくれた。

マキノ雅弘監督 文藝春秋

撮影初日、何度やってもOKが出ず涙

 まもなくしてマキノが監督し、大御所・片岡千恵蔵が主演の『八州遊侠伝・男の盃』(1963年)でデビューすることが決まった。若き日の千葉真一演じるやくざに恋する宿屋の娘という役どころだった。娘を女優にするつもりなどなかった父は困惑したという。撮影初日には、父親役の志村喬とのシーンで、何度やってもOKが出ず、ついには泣き出してしまい、その日の撮影は中止となる。ただ、マキノは後年、このとき彼女は演技に感情が入らないことに泣いたといい、「この娘はよくなるな」と思ったと振り返っている(『週刊朝日』1972年3月24日号)。

若かりし頃の富司純子(藤純子) ©︎文藝春秋

 マキノ監督は富司にとって父親以上に父親らしい存在だった。感情表現は体の重心が基本だと考えていたマキノは、彼女にもそれを徹底して教え込んだ。「藤純子」の芸名をつけてくれたのも彼である。結婚前の本名の俊藤純子と1字違いだが、マキノいわく《必ずしも俊藤の姓から取ったのではなく、ワシが藤の花が好きだったからでね》(『週刊文春』1982年7月29日号)。本人は藤の花は下がって咲くから嫌だと言ったらしいが、マキノは「藤の木はどんどん大きくなって花を咲かす。花が咲き誇ったとき、自然に重くなって下がるんだ。そうすれば女優をやめても、いい人の嫁さんになれるよ」と説得したという。

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 あとから彼女が母親に連れられて占い師に見てもらったところ、「藤純子は有名になって売れるけど、結婚したらやめる名前です」と言われたらしい(『キネマ旬報』2007年1月上旬号)。マキノの言ったことといい、実際に的中することになったわけである。