きょう12月1日、富司純子が80歳の誕生日を迎えた。藤純子(旧芸名)として俳優デビューし5年後に掴んだ“当たり役”、七代目尾上菊五郎との結婚、引退を決めるまでの経緯は……。(全3回の2回目/つづきを読む

若かりし頃の富司純子(当時は藤純子) ©︎文藝春秋

◇◇◇

当たり役は女侠客の「緋牡丹お竜」

 藤純子(現・富司純子)の芸名で東映でデビューして以来、テレビも含めて5年ほどさまざまな役を演じながら俳優として学んだ彼女は、1968年にはついに当たり役を得た。それがこの年、第1作が公開された映画『緋牡丹博徒』シリーズの主人公、女侠客の緋牡丹お竜こと矢野竜子である。

ADVERTISEMENT

 もっとも、彼女は当初、なぜ女剣劇みたいな役をやらなければならないのかと違和感があったという。そこで第1作の監督である山下耕作には、どうして彼女がやくざにならなくてはいけなかったのかを脚本にきちんと書いてほしいと頼み込み、娘時代の回想シーンを入れてもらった。撮影でも、立て膝をついてもろ肌を脱ぎ、緋牡丹の入れ墨をさらすようにと言われて抵抗し、結局、片肌を脱ぐことで妥協する。

映画『緋牡丹博徒』(1968年公開)

映画館ではお竜の一挙手一投足にどよめきの声が

 不満を抱きながらも、『緋牡丹博徒』が公開され、映画館へ行ってみると、どのドアも閉まらないほど観客があふれかえり、お竜の一挙手一投足にどよめきの声が上がっていた。この光景を見て彼女は《矢野竜子がこんなにも愛されている…信じられない思いだった。なんとありがたいことだろう。私は改めて真正面から竜子と向きあい、竜子の生き方について考え直そうと襟を正した》という(『週刊読売』1996年6月2日号)。それからというもの竜子の生きた大正、また明治にさかのぼって女性の様式美の勉強を重ね、立ち回りも殺陣師に丁寧に教えてもらい直した。女の立ち回りなのだから美しく流れるように、それでいて男優に負けない迫力を出すため、長年稽古をしてきた日舞が役立ったという。

映画『女渡世人』(1971年公開)

 折しも全国で学生運動が激化していたころで、反体制の若者たちから任侠映画は熱烈な支持を集めており、藤純子は時代のシンボルに祭り上げられた。東映は彼女の人気に乗じて、さらなる主演シリーズとして『日本女侠伝』『女渡世人』を並行して送り出すことになる。会社の看板女優として彼女は多忙をきわめながらも、後続の2シリーズでは作品ごとに役が変わるので、そのプロセスをつくっていくのが楽しかったという。