“ポルノ全盛の映画界”に「聖性の女」と評されて
映画業界全体でいえば、60年代末にはすでにテレビに押されて観客が激減し、各社が不振をきわめていた。70年代に入ると日活がロマンポルノ路線に転じる。そのなかにあって藤純子の存在感はさらに際立った。
当時のある週刊誌では、《ポルノ全盛の映画界にあって、その魅力は異質のものだ。彼女は絶対に脱がない。常にキチッと和服に身を包んでいる。その和服の裾からチラッと白い膝がこぼれてみえただけでも、観客はむしろ目をそむける。見てはならないものを見てしまった……そういった、いわば聖性ともいえる女である》と評される(『サンデー毎日』1972年1月23日号)。しかし、この記事が出た時点で、彼女はすでに結婚を機に引退すると発表していた。
四代目尾上菊之助に送りつけた“血判状”
大河ドラマ『源義経』(1966年)で共演したのをきっかけに四代目尾上菊之助(当時)と交際を始め、互いに忙しいスケジュールを縫ってデートを重ねていた。とはいえ、プレイボーイで鳴らした彼のこと、別の女性の影がちらつくこともたびたびあったらしい。結婚する3、4年前のクリスマスイブには会う約束をすっぽかされ、彼女は裏切られたと思いカッとなってハンカチに「もう、おつき合いはいたしません」と血判状をしたため、彼に送りつけたという。それでも翌日、彼がタキシードを着て、バラの花束を持って謝りに行き、落着したらしい。のちに夫婦で週刊誌上で対談した際、この話題となり彼女は《惚れた弱みで、つい許してしまって(笑い)》と苦笑した(『女性自身』1979年3月29日号)。
“血判状事件”があったころだろうか、交際から3年ほどして菊之助は母から彼女とどうするつもりかと訊かれ、もちろん結婚すると答えたという。実際、彼女の父の俊藤浩滋にも挨拶に行ったが、「いまは仕事が忙しい。3年待つように」と言われた。彼は素直に従い、3年経って約束どおりまた俊藤のところへ行くと、「もう1年待つように」とまたしても先延ばしされてしまう。
東映のプロデューサーとして、稼ぎ頭である彼女にやめられては会社の大打撃となるだけに、彼には先延ばしして諦めてもらうつもりだったらしい。彼女のほうも父から「歌舞伎役者は金遣いが荒いし、女遊びをするし、大変やぞ」と自分のことは棚に上げて言い聞かされたという。

