交際6年目に突然の婚約発表

 父と会社が反対するなか、交際6年目に入っていた1971年の秋、週刊誌に二人で会っているところを写真に撮られてしまう。曲げて書かれたら困ると、記事が出る前に婚約発表することが急遽決まった。東映の岡田茂社長(当時)もここにいたって結婚を認めざるをえなかったが、会見では「絶対に女優を引退するということだけは、発言しないように」と釘を刺された。

 しかし、彼女は結婚するなら引退しなければならないと前々から決めていた。後年の対談では、そう決意した原因の一つとして、彼の歌舞伎にかける本物の情熱にはかなわないと思ったことを挙げ、《女優をやめて自分のありったけの女の情熱をかけて、この人を大きくしようと心の底から思ったんです。この人が大きくなれば、あたくしもより高められるんじゃないかって》と明かしている(『週刊現代』1988年6月18日号)。

 だが、そう決意しても、婚約発表とともに引退を宣言しないと、ずるずると仕事を続けさせられると思った彼女は、「ほっとした気持ちです。結婚をきっかけに引退します」ときっぱりと言い切り、引退を惜しむ声に対しては「散ってこそ花、私は満開のうちに散りたかった」との言葉で応えた。

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 会見の翌日から東映本社には、結婚の撤回を求めるファンの電話が殺到した。それを聞いて彼女は女優冥利を感じたという。

映画『関東緋桜一家』

 藤純子としての最後の出演作『純子引退記念映画・関東緋桜一家』(1972年)は、恩師・マキノ雅弘が監督し、ラストシーンでの「皆さん……お世話になりました」とのセリフによりクランクアップとなる。このあと、京都撮影所、京都国際ホテルと場所を変えながら送別パーティーが東映スタッフによって開かれ、盛大に見送られた。映画が公開されると封切りの3月4日だけで25万人が劇場に詰めかけ、ラストシーンでは観客が一斉に拍手を送ったという。(つづく

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