任侠路線へと舵が切られる東映で、汚れ役も
『男の盃』出演後には、大阪・朝日放送のテレビバラエティ『スチャラカ社員』に女性社員の役で出演、しだいに人気を集め始める。映画にも次々と出演し、時代劇や明治物のほか、東映の東京撮影所で現代物を撮ったりした。
東映はそれまで主流だった時代劇が下降線をたどっており、手探りを続けていた。そのころプロデューサーとなった父・俊藤浩滋が力を入れ出したのが任侠映画だった。
藤純子は、従来の東映の女優がたいていは時代劇のお姫様役を数年やって売り出されていたのに対し、そのパターンから外れ、デビュー当初から町娘のほか、芸者、女郎、人妻などを演じ、実年齢以上の役で起用されることも多かった。任侠路線へと舵が切られてからは、鶴田浩二、高倉健、若山富三郎など並み居るスターと共演して、任侠物を勉強していく。
若い女優からすれば汚れ役もこなしながら、彼女は自分に求められているものを冷静に理解していた。当時の週刊誌の密着取材では、《芸者さんや、女郎さんの役かて、自分の肉体少しも汚さんと、汚れた演技教えてもらえるもんな。ヤクザ映画かて、これやっていかんと会社やっていけないさかい、しかたないおもうわ》とコテコテの関西弁で語っている(『週刊文春』1965年12月13日号)。
それでも「自分の肉体少しも汚さんと」と言っているところに、彼女の女優としての矜持をうかがわせる。実際、木下恵介監督による石鹸のCMの撮影に際し、体を洗う場面を要求されたものの、脱ぐことを拒否。これに木下は怒るどころか「いまは、脱いでも出たいという女優さんが多いのに、純子は立派だ」と感心したらしい。
京都と東京を往復する“新幹線女優”
上記の密着取材に応えたのは、翌1966年のNHKの大河ドラマ『源義経』に義経の恋人・静御前の役で出演が決まり、飛躍が期待されていた時期だった。同じころには日本テレビのドラマ『王将物語』(1965年)で長門裕之演じる将棋の坂田三吉の妻・小春役に抜擢され、彼女自身も演技に自信を持ち始めていた。
それまで京都と東京の東映撮影所を往復していたところへ、大河出演のためNHKのスタジオでの収録が加わって、ますます往復が頻繁になる。“新幹線女優”の異名をとったのもこのころで、多い月には10往復もしたとか。『源義経』は俳優としてのステップというばかりでなく、義経役だった四代目尾上菊之助、のちの夫・七代目菊五郎との馴れ初めとなり、彼女の実人生においても重要な作品となった。(つづく)

