小説家といわれるのは何となく後ろめたいような
それから20年ほど経ってから、ひょんなきっかけで小説というものを書きはじめて、もともと小説というものに対して、あまり覚悟もできていないまま書きはじめたせいか、それを20年以上なんとなくだらだら続けていても、自分で「あっ、プロになった」っていうふうに、自分で自分にGOを出すことが全然できずにいます。
最近は「作家」という肩書で容赦してくれなくて、「小説家」っていうような肩書をつけられる時があると、何か詐称しているような、何となく後ろめたいような気持ちを、私は特に感じるんですけれど……。先輩作家の方々は、自分にどうやって「自分はプロの作家なんだ」というふうにGOを出すんだろうって、ずっと考えに考え続けて、そもそもこんなことを考えるような人間は、作家というか小説家にはなっちゃいけないんじゃないか? 小説家というのは、きっと自分の書いたものが、すべて小説だと思えるぐらいの確信が持てないと、書いてはいけないんじゃないか、と悩むようなこともすごくあります。
そういうわけで何の自信もないまま、自分にGOを出せないまま、ずっとものを書き続けているんですけれども、こういう賞をいただくと、つまり自分ではGOを出せないから、いろんな先生方からGOを出してもらえると、本当にほっとして嬉しく、ありがたく思います。本当にありがとうございました。
(第38回柴田錬三郎賞授賞式スピーチより)
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書くことの愉悦と苦悩、芸能の栄枯盛衰、そして自らの老いと死。芸に生きる者たちの境地を克明に描き切った、近松小説の決定版にして芸道小説の最高峰『一場の夢と消え』。松井今朝子さん自身が小説家として改めて向き合ったこの物語を、ぜひ多くの方に手に取ってほしい。
