二人とも多くは語らず、お互いの手を握り合っていたが、一体どういう心持ちで何を思っていたのだろう。とても切ない光景だった。父が亡くなると、当たり前の話だけれどもとても寂しそうにしていた。

最後の介護

 そんな母も父の死からひと月後に祖母と同じく大動脈瘤破裂で亡くなった。明け方に施設から、「腹部に強い痛みがあり、救急車で病院へ向かう」と連絡があった。私は同乗しようとしたが、救急隊員からは今すぐ命に関わることもなさそうだから直接病院に来てくれと言われた。しかし数分後に連絡があって、意識がなくなり厳しい状態だと告げられた。

お母様の石原典子氏 ©文藝春秋

 母は常々「体に管をつけて生きながらえることはしたくないから、そのような状態になったら必ず外して欲しい」と言っていた。私は病院に着くと医者の説明を聞く前に、兎に角真っ先に母の亡骸から管を外してもらった。それが親に対する最後の介護となった。

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