「余命3ヶ月、桜の花は見られないだろう」──石原慎太郎がステージ4のがん告知を受けた瞬間、四兄弟の家族会議が始まった。自宅から施設へ、そして最期の時間をどう過ごすのか。

 死を間近にした父と向き合った四男・延啓氏が見た「父の最後」とは。四兄弟がそれぞれの視点で家族の思い出を綴ったエッセイ集『石原家の兄弟』(新潮社)より一部を抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む

2022年に亡くなった石原慎太郎氏 ©文藝春秋

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「この人は生涯現役なのではないか」

 私は四男で好き勝手にやってきて、実際に家族全体の重要な決定は親と上の兄たちが決め、ただそれにヘイヘイと従ってきただけのことだった。無責任に過ごしてきた故に親が高齢になってからも、勝手にいつまでも元気でいるものだと思いこんでいて、親の介護などを想像したこともなかった。

 父方の祖父は父が高校生の時に亡くなり、母方の祖父は日中戦争で戦死、祖母も母が中学生の頃に亡くなっていた。よって私が知っている家族の中のお年寄りは父方の祖母のみだった。

 明治生まれだがハイカラな人で、頭脳明晰、歯に衣着せぬ物言いで「老人」というイメージはそぐわなかったが、私の留学中に転倒して大腿部を骨折し、入院中に再度転倒して今度は逆の脚を骨折したことがある。この時は一時的に認知症にかかり、「病室を幼い頃の延啓が走り回るので注意した」とか言っていたそうだ。晩年は座っていることが多くなったけれど、逗子の実家でそれなりに元気に過ごしていたその祖母も82歳の時に大動脈瘤破裂であっという間に亡くなった。

 よって、身の回りの世話をしてくれていたお手伝いさんはいたけれども、祖母の介護ということは実質なかったように思う。

 そうこうするうちに私たち四人の兄弟も結婚してそれぞれ家庭を持って独立した。

 田園調布の実家には両親が残された訳だけれども、66歳で東京都知事に就任した父は益々血気盛んで、この人は生涯現役なのではないかと想像させられた。しかし、母だけで父の世話をするのは心身共に負担もあったのだろう、私はそれとなく実家の近くに住んで欲しいと打診されていて、結婚する少し前にひとり気楽に生活していた葉山から実家の近所、徒歩10分ほどの場所に引っ越した。

 父は多忙ながらも自分の息子たちと食事をしながら話をするのを好んだので、私の場合はアート、文化方面の話題提供者として、しばしば呼ばれて一緒に食事をしながら酒を飲んだ。

 いつも父のご機嫌取りをしなければならない母としても、末っ子の来訪で少しは息を抜けるようだった。