「余命3ヶ月、桜の花は見られないだろう」

 司令塔を失った実家の運営は息子たち四人の合議制となった。長兄が施設の決定など大きな案件を取りまとめ、次兄が医師である義姉と共に両親の健康や身の回りの案件を担当した。

 銀行勤務経験がある三兄が財務や契約書関係を管理して、私は、まあ、庶務、遊軍といった具合だ。

 施設に入って父から解放された母はみるみるうちに元気になり、逆にお手伝いさんとの二人暮らしになった父は膵臓癌の奇跡的な早期発見と重粒子線治療による完治、首の血管にある大きな血栓の除去手術などを経ながら尻餅をついて尾骶骨を骨折するなど衰えが目立つようになっていく。

ADVERTISEMENT

 脳梗塞を患って以降、特に歩行が困難になっていった父だが、健康維持のために散歩は欠かさなかった。しかし、いよいよ足元が覚束なくなってきてお手伝いさんに同行してもらうようになったある日、よろめいて転倒しかけてサポートしてくれたお手伝いさんを巻き添いにして捻挫させてしまった。これを機会に、自宅とも行き来できるからと説き伏せて家の近所の施設に入ることにした。

 既に要介護認定されるレベルに足腰が弱っていたので、家族としては安心したが当の本人は相当に不服そうであった。アーティスト仲間だから、という気持ちからか父は私が最後まで味方で施設に移ることを反対してくれると思い込んでいた節があり、それを裏切るのも胸が痛かったが、こういった辛いことを父に伝える役割は常に次兄がやってくれた。いつも嫌な役割を引き受けてくれて、逆に傷つくことも多かったと思うが、本当に次兄には感謝している。

 いざ移ってみれば住めば都というやつで、父は大騒ぎすることもなく普通に過ごしていたが、入所ひと月ほどしてどうもお腹が張って違和感が拭えないから病院に行きたいと言い出した。以前にも同じ症状で便秘だったことが数回あり、皆でうっちゃっていたのだが、我慢できなくなったのか、自分で病院のアポイントメントを取って受診したところ、いきなりに「余命3ヶ月」の宣告を受けてしまった。

 それを聞かされて我ら兄弟はそれぞれ衝撃を受けたが、何よりも当の本人が曰く「神経がずたずたに引き裂かれた」ほど相当なショックを受けた。宣告を受けた直後に父と会った時、私はどう声をかけたら良いか分からずに、思わず「正岡子規の『病牀六尺』ではないが、今の心境を描写して文章に描写してみたら?」というと「俺は日記を書く」と答えてくれた。

 ものを書くという意欲は失われず、亡くなる2週間前までワープロはスイッチオンのまま開かれていた。

「余命3ヶ月、桜の花は見られないだろう」

 膵臓癌が転移して腹膜播種が起きているステージⅣという告知は米寿を超えた老体の父には厳しく、治療は断念してターミナルケアを選択することとなった。

次の記事に続く 「確実に死に向かっている」激痛で助けを求めた父・石原慎太郎──四男・延啓が目の当たりにした“末期がんの残酷さ”

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。