たった一言のセリフで関係性がわかる脚本の妙
※ここから先、公開中の『羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来』のネタバレを含むため、未見の方はご注意ください
シンプルでありながらディープであるのは作画だけではなく、脚本や演出においてもそうだ。前作から数年を経て公開された今回の『羅小黒戦記2』の内容は、本来なら1クール12話のTVシリーズをまるごと費やすほど壮大な内容の物語である。
だがそれを2時間にまとめあげた映画を見ている時、総集編のような詰め込みすぎた無理がまったくなく、流れるように自然なストーリー展開に飲み込まれてしまう。それは彼らの絵が上手いのと同じように、脚本と演出もまたコンパクトに本質をとらえる技法に支えられているからだ。
一例をあげれば、前作で描かれたムゲン(无限)とシャオヘイの師弟コンビの前に新しく登場する今作の最重要人物、ルーイエとの会話などがまさにそうだろう。
初登場する姉弟子、ルーイエはシャオヘイにどのような感情を抱いた、ムゲンとどういう距離感の女性なのか。脚本はルーイエの「私が最後の弟子じゃ?」というたった一言で観客に鮮やかにその関係性を印象付けている。ムゲンにとってルーイエが「お前のあとにはもう弟子を取らない」と告げるほど特別な存在であったこと、また、そう言っていたくせにまた新しい弟子をとったんですね、と言わんばかりにチクリとムゲンを刺すルーイエの言葉にも師に対する複雑な感情が残っていることが、たった一言の台詞で観客に無意識に刷り込まれるみごとな脚本だ。
このあとの、長老たちに事件の犯人ではないかと追及されるムゲンを目の前にしたルーイエが、先ほどの冷淡な態度を一変させて弁護に回り、強硬派のチーネン(池年)長老と一触即発の状態になっても薄笑いで平然と答える描写は、ルーイエのムゲンに対する愛憎が複雑なものであること、実力者ぞろいの長老レベルを相手にしても一歩も引かない知性と実力の持ち主であることを伝える、流れるような描写になっている。
妖精たちが人間と同居する異世界を描き、その中に複雑な対立関係を描く『羅小黒戦記』が観客にストレスを感じさせず物語をドライブすることができるのは、この高度な脚本技術によるものが大きい。通常なら名前と顔を覚えきれないほどの登場人物が新登場するのに、そのイメージが整理され、まったく混乱しないのだ。絵においてその構図の見やすさはレイアウトの技術に支えられるのだが、脚本もまたレイアウトが見事なのである。
いわゆる説明台詞がなく、人物たちの行動と描写で濃密な情報を観客に伝えていく脚本技術は、観客の読解力にあわせて物語の別の層が見えてくるという多層構造も持っている。
人間たちと妖精の間の全面衝突をめぐり、ムゲンと最強の妖精ナタ(哪吒)が1000年の伝統ある門の前で大バトルを繰り広げるのだが、実はこの戦いが強硬派のチーネン長老を説得するために二人が示し合わせた「軍事演習」であることは劇中でわざわざ説明はしていないのである。例えば二人が視線を合わせて「うまくいったな」と暗にほほ笑むとか、そうした説明過多の描写をあえて脚本は排除し、「わかる観客だけがわかっていればいい」というスタイルで、わからない観客も楽しめる作劇を実現している。
「マジになるなよ」「ならなければ防げない」というナタとムゲンの会話が、半ば演習、半ば本気のバトルの高い温度を表現する台詞であること、門の戦闘以前に、ナタの家で二人が一触即発になった時に「ここでやるのか?」と二人に声をかけたキュウ爺(鳩爺)の台詞が、要は「ここではなく妖精たちの前で戦ってみせたらどうだ」という提案、つまりこの二人のバトルの陰の仕掛け人がキュウ爺であったこと、表面的にはチーネン長老は歴史ある門が破壊されることを恐れて二人を止めに入ったように見えるが、そもそもこの二人のバトルが「人類と妖精が全面戦争になればこうした破壊が全世界で起きることになるが、それでもやるのか?」というチーネン長老への暗黙のメッセージになっており、彼もムゲンとナタの阿吽の呼吸に薄々気がつきつつ、二人の「殴り合いによるたとえ話」を理解した上で妥協する知性を持った長老であること、そうしたことは劇中で説明なしの暗示にとどめ、観客の「読解と解釈」にゆだねられている。
