11月7日から日本公開されているアニメ映画『羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来』。
その前作、2019年に公開された第1作『羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来』の段階から、日本ではその技術と作家性に対してクリエイターたちから高い評価と賞賛が寄せられ、また作品やキャラクターを愛する多くの日本のファンも生んだ。その一方で、中国エンタメ脅威論とでもいうべき警戒心理も一部に働いたのは前編で書いた通りである。その警戒心理は技術だけではなく、作品に込められたメッセージにも向けられていた。
それは「これは国内少数民族同化政策への隠喩ではないか」という批判である。第1作で近代化する人類に住処を追われた妖精、フーシーを同じ妖精として慕うシャオヘイは、“妖精の人類に対する逆襲”を執行人として制圧するムゲンという人間の間で揺れ動く。最後はシャオヘイがムゲンの側に立つ結末は、見方によっては人間=中国政府による、妖精=少数民族の管理の肯定に見えるという解釈だ。
だが率直に言って、筆者はこの「同化政策プロパガンダ説」に対して疑問を持つ。もしこれが少数民族の同化政策を推進するメッセージを持たせようとする作品であるのなら、妖精の民族自立を目指し、人類に対するテロを企てるフーシーは徹底的に同情の余地がない悪人として描かなくてはならないはずだからだ。
だが、1作目『羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来』で最も観客の心に残るキャラクターの一人はフーシーである。数年の時が流れ、新作の第2作が発表された後もフーシーのファンアートを描き、彼の行動と結末の是非について議論するファンは日中ともに後を絶たない。
『羅小黒戦記』の脚本と演出は、1作目から繊細と精緻を極めている。ブレイク・スナイダーの有名な映画脚本術「セイブ・ザ・キャットの法則」、つまり冒頭で主人公が猫を助けるシーンを観客に見せて観客に感情移入させろ、というセオリーを踏襲するかのように、黒猫であるシャオヘイを最初に助けるのは誰か? フーシーである。そのうえで、まるで悪役のように現れた執行人ムゲンが捕らえたシャオヘイを何度も助ける、「2度目のセイブ・ザ・キャットの法則」を作って2つの感情の間で観客が揺れるように意図している。
地下鉄のトンネルを抜けた瞬間に窓の外が明るくなる、それがシャオヘイの心理とシンクロする演出などを使いこなすこの映画の作り手が、本当に独立派の妖精を徹底的な悪として観客にプロパガンダしようとするなら、フーシーがシャオヘイの能力を奪おうとする瞬間に必死で説得して止めようとする仲間を描くはずがない。ムゲンとの戦いに敗れ、服従を拒んで美しい大樹に変わるフーシーの死を描くシーンに弦楽器の音色を重ね、最後の台詞を「シャオヘイ、ごめん」にするはずがないのだ。
だが、1作目の結末に対して批判的な意見が出たのもわかる。1作目『羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来』は明らかに、ある種の「後味の悪さ」を意図的に残すように作られているからだ。映画を見た観客に100%のハッピーエンドを与えるのではなく、「それにしても、フーシーたちがあまりにも可哀想だ」という解消されない感情を抱えたまま映画館を出るように入念に設計されている。1作目が持つその「後味の悪さ」を、映画の作り手が意図しないものだと解釈する観客は「人間=体制側マジョリティ」として描くプロパガンダと感じたのだろう。

