日本でも1973年に大江健三郎が「破壊者ウルトラマン」という論考を雑誌『世界』に寄稿し、『科学の精』であるウルトラマンが怪獣を打ち倒す姿を無批判な科学の肯定だと批判したことがある。大衆を相手にするエンターテイメントがマジョリティ性を帯びないことはほとんど不可能ですらある。

 だが同時に、『羅小黒戦記』1作目のラストで壮絶な最期を迎えるフーシーの悲しみに、かつて日本の特撮において沖縄出身者である金城哲夫や上原正三が『ウルトラセブン』の脚本にこめた「倒されていく者たちの悲しみ」を感じたのも事実だ。同じアニメということもありよく比較されるのは『もののけ姫』だが、1作目『羅小黒戦記』のラスト、フーシーの最後には沖縄出身の金城哲夫が先住民族である海底人の無念を描いたウルトラセブンの名作『ノンマルトの使者』の面影を感じた。

 フーシーの死が転生した大樹の森を見ながら最強の妖精ナタは「バカだな、材木にされるだけだ」とつぶやき、キュウ爺は「公園になるかもしれんぞ、有料のな」と答えるのだが、ナタの言葉はフーシーの転生した木が切り刻まれて売られるアウシュビッツのような残忍な現実をイメージさせるし、「公園になるかもしれん」というキュウ爺の言葉は一見保存される救いがあるようで「有料のな」という刺すような言葉で、世界中の少数民族が保存と引き換えに「観光化」されている現実に重なるような表現になっている。脚本として、明らかに政治が隠喩されているのだ。

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中国の表現者にとって“隠喩”は抵抗の手段である

 筆者は『羅小黒戦記』が同化政策へのプロパガンダであるという見方に否定的だが、それは「これはただのファンタジーアニメなのだから政治的な解釈を持ち込むべきではない」という意味ではない。むしろ逆で、この作品が本当にスリリングな名作である理由は、現代中国で制作されながら、隠喩という抜け道をくぐって政治や社会を語るポリティカル・フィクションを作り上げている点だと思っている。

中国・上海 ©時事通信社

 中国では、政治表現は時に隠喩という形をとる。20世紀に「中国ロックの父」と呼ばれたミュージシャン崔健(ツイ・ジェン)の歌は、天安門事件の学生たちの愛唱歌となった。批判すれば即座に検閲され逮捕される体制の中で彼は、赤い布で目隠しをして歌う『一塊紅布』という曲を、ラブソングにも、政治批判の隠喩にも解釈できるように歌うことで検閲を逃れた。それが中国における表現者の抵抗であり、そうでなければ表現者は一瞬で表舞台から姿を消す。

 そして今回の新作『羅小黒戦記2』では、作り手がファンタジーの中に隠した隠喩は前作の「異民族の自立と共生」から「政治と戦争」に触れていく。冒頭から銃武装した人間の軍隊が妖精たちを火器で殺害する激しい戦闘が描かれ、撃ち殺された妖精の身体から樹木が芽吹くシーンが描かれる。それは1作目のフーシーの死を明らかに思わせる。「これはフーシーと同じように人間に殺されていく妖精の物語の続きだ」ということが冒頭から暗示されるのだ。

 妖精たちと人間の間にある軍事的対立に加え、おそらくは中国政府の人間であろうという政治家に対する妖精たちの政治的駆け引きが描かれる。その綱渡り的な表現は日本人が見ても「中国アニメで政治家を描いて大丈夫なのか」と不安になるほどセンシティブな描写だ。

ムゲン 『羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来』公式サイトより

※ここから先、公開中の『羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来』のネタバレを含むため、未見の方はご注意ください

 クライマックスで、ムゲンは妖精たちの資源を盗み出した人間の軍事基地を圧倒的な力で突破し、敵の司令官の目の前に立つ。軍司令官は金髪の西洋人であり、英語で「お前が最強の妖精、ナタなのか」とムゲンの名をナタと取り違える。表層的に見ればこれは中国人であるムゲンが欧米の軍事力を一蹴する、中国の観客にとって胸のすくような「愛国的」シーンにも見える。

 だが、映画を丹念に解釈すればわかることだが、ムゲンはこのクライマックスにおいて一切の攻撃をせず、一人の軍人も殺害せずに事態を収めるために妖精たちと対立し、ナタと歴史ある門の前で戦うのだ。

「(妖精たちと)国交がなく、300年前に妖精たちが滅ぼされた地」にある軍事基地、そこにいる英語を話す兵士たちがどこの国を指しているのかは、脚本では明言されず隠喩にとどまる。だがムゲンはナタの家で「その場所」がどこであるかを悟った瞬間にそれまでの静観を翻して立ち上がり、「彼ら」との全面衝突を避けるために動き出す。「人間と妖精の戦争を避ける」という映画のテーマが、同時に対米戦争、東西の『文明の衝突』による全面戦争を避ける、という政治的隠喩にもなっているのだ。

 膨大な砲火を跳ね返しながら進むムゲンと、敵軍の中でたった一人、砲を構えたまま撃とうとしない(おそらくは欧米人の)敵兵の視線が交差する。何の台詞もないその無言の数秒に作り手はおそらく、映画の隠された真のテーマを託している。