他の少年との明らかな違い

 月日を過ごすうち、八木下はあることに気づいた。羽生には他の少年と明らかに違うところがあった。10歳に満たない子供のほとんどは盤を挟んで相手と向き合っている間は集中できるが、相手がいなくなると途端に飽きてしまう。ところが、8歳の羽生は一人でも盤に没入することができた。詰将棋を解くことを勧めると、羽生はそれに飽き足らず自ら詰将棋の問題を創作してきた。

 やがて羽生は道場にやってくると、八木下のいるカウンターにかじりついて話し始めるようになった。何を話すのかと思って聞いていると、前の週にテレビで放送された対局の棋譜を諳んじていた。八木下は忙しいのと、ついていけないのとで苦笑いして誤魔化すしかなかったが、羽生は構わず喋り続けていた。まるで1週間分、詰めに詰め込んできた将棋に対する知識と情熱が溢れ出ているようだった。

 この子は家に帰ってもひとりで指し続けているのだ……。

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「いいんだよ。また勝てばいいんだから」

 瞬く間に定跡を覚え、昇級していく才能もさることながら、それ以上に将棋への没頭の深さに驚かされた。そして羽生と他の少年たちとの最大の違いは強い相手との対局を嫌がらないこと、つまり敗北を怖れないことだった。

 将棋の楽しさとは勝つことにある。それを最も純粋な形で表現するのが子供たちだった。席主として日々、子供たちに接している八木下はよく知っていた。勝てばのめり込み、負ければ飽きる。だが、羽生の勝敗の捉え方はどこか違っていた。段級が上の相手と指して敗れる。悔しいだろうと思って話しかけると、羽生は八木下を見上げて言った。

「いいんだよ。また勝てばいいんだから」

 微笑む少年の言葉には大人がはっとさせられるような響きがあった。八木下が知る限り羽生が負けて悔し涙を流したのは、初段から二段に上がる昇段の将棋で敗れた時の一度きりだった。以来、何かを悟ったかのように少年はより強い相手を求め、敗北を受け入れ、その中にこそ何かを見出しているようだった。

 やがて八木下は土曜日を心待ちにしている自分に気づいた。道場に駆け込んでくる少年の煌めきに触れることを、待ち遠しく感じるようになっていた。

 日々の仕事を終えた八木下の愉しみの一つは地元の酒場で杯を傾けることだった。道場を開いてからは行きつけの店の女将との世間話も、自然と将棋のことになっていた。

「うちの道場にすごい子がいるんだよ。将来、名人になれるんじゃないかと思うような、そんな子なんだ」

 八木下の熱っぽい口調を女将は微笑みながら聞いていた。

「とにかく、あんな子は見たことがないよ」