11月26日、羽生善治九段(55)が第19回朝日杯将棋オープン戦二次予選で千田翔太八段に勝利し、公式戦通算1600勝を達成した。自らの持つ歴代最多勝利数を更新し、棋士生活40年でたどり着いた前人未踏の大記録。勝利数に加え、タイトル獲得も歴代1位の99期。50歳を過ぎてなお第一線を戦う偉大な棋士・羽生善治はどのように誕生したのか。
今期の将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)を受賞し、「ドラマ化してほしい」「『聖の青春』以来の名著」と将棋ファンから熱い支持を受ける『いまだ成らず 羽生善治の譜』(文藝春秋)より羽生と将棋の出会いを描いた第2章「土曜日の少年」から抜粋する。羽生と「八王子将棋クラブ」席主の八木下征男さんの人生が交錯する物語をお楽しみください。(全2回の1回目/つづきを読む)
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2022年2月5日
第80期順位戦 翌日
東京・八王子
晴れた土曜日だった。八木下征男は朝から時間をかけて新聞をめくっていた。月曜日と水曜日と金曜日は人工透析のために午前中から病院で過ごさなければならなかったが、週末は時計を気にすることなく、じっくりと紙面に目を通すことができた。
目当ての記事は社会面にあった。ページ中央に目立つ大きさの見出しがつけられている。
『羽生九段 A級陥落 連続29期でストップ』
前日、第80期A級順位戦8回戦、永瀬拓矢との対局に敗れた羽生善治は最終9回戦を待たずに、B級1組への降級が決まった──記事にはそう書かれていた。ひとりの棋士の降級が社会面で大きく報じられることは稀だが、それは確かに大きなニュースであった。
「内容も結果も伴わなかったので致し方ない」
紙面には羽生のコメントが掲載されていた。八木下は羽生らしいなと思った。そして記事をよく見ると、羽生は降級についてだけでなく、来期の順位戦についても問われたようだった。名人位への挑戦資格を失い、棋士人生の節目を迎えた羽生がもしかしたらやめてしまうのではないか……。周囲にそうした憶測があることが伝わってきた。
ただ、羽生は先のことについては明言を避けていた。
「次の対局に全力を尽くしたい」
そう語るにとどめていた。
羽生は将棋をやめてしまうのか?
これまでの羽生に比して、この1年の勝率を見れば、報道陣や関係者が引退の可能性を危惧するのは無理からぬことかもしれなかった。アマチュアの側からずっと将棋界を見つめてきた八木下にも羽生の周囲に渦巻いている空気を察することができた。八木下は長く八王子市内で将棋道場を続けてきた。だが、腎臓を悪くして体力的に難しくなったことに加え、インターネット将棋やAIソフトの普及で子供たちが道場に来なくなった影響もあり、3年前に閉めた。自身も80歳を目前にしていた。何もかも昔のままではいられない。自分にも、羽生にも、すべての人間に等しく訪れる時間の流れについてはよく分かっていた。
一方で、八木下には羽生が将棋をやめてしまうことはないだろうという確信にも似た思いがあった。確かに棋士は勝てなくなった時が引き際なのかもしれない。年齢を重ねるほどトップレベルで戦い続けるのは困難になるのかもしれない。ただ、羽生に限ってはそもそも将棋に求めているものが他の棋士とは少し異なっているような気がしていた。その不思議な空気は初めて出会った少年の頃からずっと変わっていなかった。羽生という棋士の根源は50歳を超えても、八王子の小さな町道場にやってきた44年前のあの日のままであるように感じられた。
八木下はそこまで考えて新聞を閉じると、穏やかな土曜日に身を委ねた。



