名門・八王子将棋クラブの誕生
この頃、道場は八王子周辺にもいくつかあったが、どこも新しく開場しては閉場するという繰り返しだった。八木下が通っていた道場もある日突然、扉に『閉めました』という貼り紙だけを残して消えてしまった。そんな状況を見るにつけ、八木下の胸には“自分が席主ならこうするのだが”という腹案がいくつか浮かんでいた。何よりも、これまでの人生の反動からか、好きなことを仕事にして生きていきたいと強く願うようになっていた。秘かにテナントの目星をつけ、開場のための盤駒も用意してあった。それでも、八木下は最後の最後で踏み切れずにいた。
「ちゃんとした堅い仕事に就いてほしい」
両親に計画を打ち明けると、そう言われた。行きつけだった道場の『閉めました』という貼り紙が頭にこびりついて離れなかった。これまで通りの道を歩むか、まったく違う世界へ踏み出すか、人生の岐路にいることは分かっていたが、迷いを吹っ切ることができないまま、八木下はこの日も現場に立っていた。
コンクリートや鉄骨の灰色ばかりが目に映る現場を冬の風が吹き抜けていく。昨日と今日がほとんど同じように感じられる光景の中、八木下はひとり次の現場へ向かうための車を待っていた。ふと、足元で何かが光ったのはその時だった。ガラスだろうか、あるいは石だろうか。屈んでみると、光っていたのは木の欠片であった。しかも単なる木片ではなく、将棋の駒であった。歩兵が裏返しになり、「と」の文字をこちらに見せていた。八木下は思わず砂利にまみれた歩を拾い上げた。おそらく建設作業員たちが仮設事務所で指していたものだろう。市販の安価な駒だった。客観的に見れば、どこかでこぼれ落ちた駒が偶然、足元にあったに過ぎない。だが、その一枚の歩によって八木下の胸は高鳴っていた。月明かりになのか、事務所から漏れる灯りになのかは分からなかったが、路傍の歩兵は確かに何かに反射して光を放ち、八木下にその存在を知らせた。しかも、一歩ずつしか前に進めない歩としてではなく、金将と同じように四方に動ける「と金」として現れたのだ。それが躊躇っている自分への啓示のように感じられた。鼓動が速くなっていた。八木下は拾い上げた駒を思わず握り締めた。


