11月26日、羽生善治九段(55)が第19回朝日杯将棋オープン戦二次予選で千田翔太八段に勝利し、公式戦通算1600勝を達成した。自らの持つ歴代最多勝利数を更新し、棋士生活40年でたどり着いた前人未踏の大記録。勝利数に加え、タイトル獲得も歴代1位の99期。50歳を過ぎてなお第一線を戦う偉大な棋士・羽生善治はどのように誕生したのか。

 今期の将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)を受賞し、「ドラマ化してほしい」「『聖の青春』以来の名著」と将棋ファンから熱い支持を受ける『いまだ成らず 羽生善治の譜』(文藝春秋)より羽生と将棋の出会いを描いた第2章「土曜日の少年」から抜粋する。羽生と「八王子将棋クラブ」席主の八木下征男さんの人生が交錯する物語をお楽しみください。(全2回の2回目/最初から読む

羽生善治 ©︎文藝春秋

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八木下の心を満たした少年の声

 母に背中を押されてようやく少年は入ってきた。まだ小学2年生だという。ただ、不安げだった少年は将棋盤を前にすると、不思議と落ち着いた顔になった。八木下はまず飛車と角、桂馬と香車それぞれ二枚の六枚落ちで指した。そこで初めて少年がまだ将棋を覚えたてであることを知った。それなのに子供大会では誤って中学生と当ててしまったことに気づいた。気の毒なことをした……。八木下は内心で後悔した。ただ、少しサイズの大きなカープ帽をかぶった少年は六枚落ちで負けても落胆した様子はなく、またすぐに駒を並べ始めた。

 少年は次の土曜日もやってきた。また、次の土曜日も現れた。赤い帽子は次第に週末の道場に溶け込んでいった。八王子将棋クラブの段級は7級からであったが、八木下は少年のために一計を案じた。特別に15級を設けたのだ。14、13と昇級すれば棋力証がもらえる。達成感をなるべく多く知ることで将棋にのめり込んでくれればと考えたのだ。

 羽生の自宅は駅から車で30分以上かかる市北西部にあった。そのため道場に居られるのは毎週土曜日、母親が買い物を終えるまでの1時間半ほどだったが、少年は次々に昇級した。対局を終えると、入口で待っている母親のもとへ駆けていき、「今日、また一つ上がったんだよ」と息せき切って昇級を告げる。その弾むような声が八木下の心を満たした。